2014年11月16日日曜日

『宋書』百官志訳注(9)――尚書

 尚書はいにしえの官である。舜が(堯を代行して)帝位につくと、龍〔人名〕を納言に命じたが、すなわち納言が尚書の職務に相当する[1]。(また)『周礼』には司会なる官が記述されているが、鄭玄は、現在〔後漢〕の尚書にあたると注している。秦のとき、少府が所属の吏四人を派遣して殿中におらせ、文書の発布を担当させたので、(その任にあたった者を)尚書と呼んだ。(これが尚書の起源である。)「尚」は「主」〔つかさどる〕の意味である[2]
 漢のはじめ、尚冠、尚衣、尚食、尚浴、尚席、尚書が置かれたが、これを六尚と言った。(これらの官のもとをたどると、)戦国の時代、すでに尚冠、尚衣に相当する官は置かれている。(一方で)秦のときになって、(はじめて)尚書令、尚書僕射、尚書丞が置かれた。漢のはじめは(六尚は)みな少府に所属しており、東漢でもなお文官として(少府に)所属していた。いにしえは武官を重視し、射撃を得意とする者に(官僚の)仕事をさせたので、「僕射」が名称になったのである。僕射は射撃の仕事に従事する者という意味である[3]

 秦の時代、左右曹諸吏がいたが、この官に定まった職務はなく、将軍・大夫以下、みなに与えられる加官であった[4]。漢の武帝のとき、左右曹諸吏に尚書奏事〔尚書が奏上する事案〕を分担して検討〔原文「分平」〕させた〔尚書から上達されてきた奏文を検討し、皇帝の判断に資する意見を出す、あるいは皇帝に代行して決済する、ということか〕。昭帝が即位すると、霍光が領尚書事となった〔「領」は原文ママ。おそらく兼任とか代行の意〕。成帝のはじめ、王鳳が録尚書事となった〔「録」は原文ママ。おそらく統べるとかそんな意味〕。東漢では皇帝が即位するたび、太傅を置いて録尚書事としていたが、(その者が)薨じたら廃していた[5]。晋の康帝のとき、何充の「譲録表〔録尚書を固辞する上表〕」に、「(晋の)咸康年間、分割して三録〔原文ママ〕を置き、王導がそのうちの一つを録し、荀崧、陸曄がそれぞれ録六條事〔原文ママ〕でした」とある[6]。であれば、(この場合の「三録」とは合計で)二十四條あるようだ。(というのも、)十二條だけであれば、荀崧、陸曄でそれぞれ「録六條」なのであるから、王導が何を管轄することになるだろうか。(あるいは)もし王導が三録全体を統括する立場にいて、(その下に)荀崧、陸曄が分担していたと解釈したら、それはそれで「王導がそのうちの一つを録す(導録其一)」とは言えないはずである。その後、(晋では)つねに二録が置かれていたが、そのたびに「それぞれ六條事を掌らせた」と言っているから、(二録の場合は)十二條だけであろう。十二條が何であるかはわからない[7]。江右〔西晋〕では四録があったので、四人が参録であったことになる〔「参録」は原文ママ。「録尚書事に加わる」の意で「参録尚書事」とよく表現される〕。江右の張華、江左の庾亮はともに「経関尚書七條」〔原文ママ〕に就いているのだが、ともにどのようなものだったのかはわからない[8]。(そのほか)のちに何充は録を解任されたが、その後「参関尚書」というものになっている[9]
 録尚書事はあらゆる事柄を管轄した。『尚書』舜典「納于大麓」の王粛注に(「麓」を「録」と解したうえで、)「堯は舜を顕貴の官に登用し、天下の政治を大録させた」とある(が、まさに録尚書事にも当てはまる)[10]。およそ重号将軍[11]や刺史であれば、みな属官の任用を自分の裁量ででき、(皇帝直任官の)任命や(属官に)節を与えることができなかったのみで(それだけで権限が非常に大きく、これに録尚書事を加えると内外の要事を一手に握ることになるので)、宋の孝建年間、権力を朝廷の外〔地方に出鎮する将軍や刺史〕に与えたくなかった孝武帝は、録尚書事を廃した。(しかし)大明年間の末年に復置された。以後、置かれたり置かれなかったりした。

 漢の献帝の建安四年、執金吾の栄郃を尚書左僕射、衛臻を右僕射とした。僕射が二つに分けて置かれたのは、これが最初である[12][13]

 漢の成帝の建始四年、はじめて(列曹)尚書〔曹は部署のこと。当該、あるいは当該のものを含めた複数の曹を統べるのが列曹尚書〕を置き、定員は四人[14]、丞も増員して四人とした。(四つの)列曹尚書は、一つめを常侍曹と言い、公卿に関する文書を担当する。二つめを二千石曹と言い、郡国の二千石(守相)の文書を管轄する[15]。三つめを民曹と言い、吏民の上書をつかさどる。四つめを客曹と言い、外国の夷狄の文書を専門とする。(のちに)光武帝は二千石曹を二つに分け、また客曹を南主客曹と北主客曹に分け、常侍曹を吏曹に改称し[16]、合計で六曹尚書とした。丞(の定員)を二人減らし、左右丞だけを置いた[17]。(その後、後漢末の)応劭『漢官儀』に、「尚書令、左丞は綱紀を総括し〔原文「総領綱紀」。綱紀は秩序とかそんな意、ここのも直訳すれば「全体の秩序」ってところで、尚書のボスだということ〕、すべての事柄を管理する[18]。僕射、右丞は銭や穀物の給付に関する文書をつかさどる[19]。三公尚書は二人、年末の成績集計に関する文書が担当。吏曹尚書は選挙や斎戒祭祀。二千石曹尚書は水害、火災、盗賊、訴訟、罪罰。客曹尚書は羌や胡(匈奴?)の朝会、法駕〔天子の車、転じて天子のこと〕が外出した際の護駕。民曹尚書は公共施設の修復、土木工事、塩池、天子の猟囿。このうちでも吏曹尚書〔選挙など〕は重役なので、飛び級の昇進〔原文「超遷」〕を遂げることが多い」とある[20]。この記述からすると、漢末の列曹尚書の名称と職務は光武帝のときとは異なっている。
 魏の時代に吏部、左民、客曹、五兵、度支の五曹の列曹尚書があった。晋のはじめは吏部、三公、客曹、駕部、屯田、度支の六曹尚書があった。武帝の咸寧二年、駕部尚書を廃したが、四年に復置した。太康年間、吏部、殿中、五兵、田曹、度支、左民の六曹の列曹尚書が置かれている(のが確認できる)。恵帝の時代には、また右民尚書があった(ことが見えている)。(恵帝のときも)列曹尚書は六人だったので、右民尚書が置かれたときにどの列曹尚書が廃されたのかはわからない。江左では祠部[21]、吏部、左民、度支、五兵があり、合計で五曹尚書であった。宋の武帝のはじめ、(五曹に)都官尚書を増置し、(また)もし右僕射がおれば、祠部尚書を置かないこととした。孝武帝の大明二年、吏部尚書を二人置き、五兵尚書を廃したが、のちに吏部尚書は一つとされた。順帝の昇明元年、五兵尚書を復置した。

 尚書令は(国家の)枢要を統べ、僕射、列曹尚書は諸曹を分担して管轄する。(宋では?)左僕射は殿中と主客の二曹を統べる。吏部尚書は吏部・刪定・三公・比部の四曹を、祠部尚書は祠部・儀曹の二曹を、度支尚書は度支・金部・倉部・起部の四曹を、左民尚書は左民・駕部の二曹を、都官尚書は都官・水部・庫部・功論の四曹を、五兵尚書は中兵・外兵の二曹を統べる。以前は(中兵、外兵のほかに)騎兵、別兵、都兵があり、そのため「五兵」と言っていたのである。五尚書、二僕射、一令、これを総称して「八坐」と言う[22]。もし宗廟や宮殿を建造する必要が出たら起部尚書を置くが、仕事が終われば廃した。

 漢の成帝が四人の列曹尚書を置いたときに、尚書郎を置いたとの記述は見られない。『漢儀』によると、(後漢の?)尚書郎は四人である。一人は匈奴単于の営部(単于庭?)を、一人は羌夷と吏民を、一人は戸籍や田畑を、一人は財政や輸送を、それぞれ担当していたという[23]。匈奴単于は、宣帝の時代に帰順していたが、成帝のときに単于は北方に帰っていった。尚書郎一人が匈奴単于の営部に関する文書を管轄していたと言うが、この郎を置いたのはおそらく光武帝のときで、管轄していた匈奴とは、(漢の領域内に移住していた)南単于のことであろう。『漢官(儀?)』によると、(後漢末は)郎を三十六人置いたらしいが、どの皇帝のときに増員されたのかはわからない。しかし列曹尚書一つにつき六人の郎を率いていたのだろう。
 (尚書郎は)文書の起草を職務とする[24]。郎中となって一年経てば〔原文「歳満」〕、侍郎となった[25]。尚書寺は建礼門内にあった[26]。尚書郎が宮中に入って仕事をする際、官が青縑〔おそらく絹製の青い衣服のこと〕と白綾被〔模様入りの白い掛け布団〕を給付するが、別に綿製の肌着をその代わりとすることもあった。(ほかに)帷帳(とばり)、氈褥〔フェルト製の敷物〕、通中枕〔アレです、中が空洞みたいになってるあの枕〕を給付し、(さらに)太官が食事を、湯官が餅餌〔麦や米の粉を練ってつくった食物〕や熟した果実類〔原文「五敦果実之属」。『漢語大詞典』によると、「五敦(=熟)」には煮て味つけするという意味があり、本文のこの箇所を用例としているが、ここは単純に解してよいように思う〕を給付する[27]。(さらに)尚書伯使一人、女侍二人、みな容姿端麗な者を選んでつけさせ、(女侍には)香をたく器を持たせ、着衣を助けさせる[28]。(尚書郎は)明光殿〔場所不詳〕で奏上をおこなうが、(明光?)殿は胡粉〔白い粉〕で壁を塗装し、いにしえの賢人や烈士が描かれている。丹朱で床を彩色しているので、この場所を「丹墀(たんち)」とも呼ぶ。尚書郎は口に鶏舌香を含むが、これは皇帝に奏上して応対する際に、息に香りをつけさせるためである。奏上するときには黄門侍郎〔天子の左右に侍る官〕と互いに拱手の礼をおこなう[29]。黄門侍郎が奏上やめと宣言してから退出する〔原文「黄門侍郎称已聞、乃出」、読めません〕。天子は五時〔春、夏、季夏、秋、冬のこと〕の朝服を尚書令、僕射に下賜するが、それに対して丞、郎は毎月、赤い柄の大きな筆を一セット(二本)、隃麋〔漢代、右扶風の県名〕の墨一つを下賜した[30]
 魏の時代、殿中、吏部、駕部、金部、虞曹、比部、南主客、祠部、度支、庫部、農部、水部、儀部、三公、倉部、民曹、二千石、中兵、外兵、別兵、都兵、考功、定科の計二十三曹の郎があった。青龍二年、戦争があったので、尚書令の陳矯が都官、騎兵の二曹の郎の設置を上奏し、合計で二十五曹となった。
 西晋では直事、殿中、祠部、儀曹、吏部、三公、比部、金部、倉部、度支、都官、二千石、左民、右民、虞曹、屯田、起部、水部、左主客、右主客、駕部、車部、庫部、左中兵、右中兵、左外兵、右外兵、別兵、都兵、騎兵、左士、右士、北主客、南主客の三十四曹の郎があった。のちに運曹が置かれ、合計で三十五曹となった。
 江左のはじめ、直事、右民、屯田、車部、別兵、都兵、騎兵、左士、右士、運曹の十の曹に郎が置かれず、主客、中兵、外兵はそれぞれ郎を一人だけ置き(左右を併せたので)、残ったのは十七曹であった[31]。康帝、穆帝以降、虞曹、二千石の二曹にも郎が置かれなかったが、なお殿中、祠部、吏部、儀曹、三公、比部、金部、倉部、度支、都官[32]、左民、起部、水部、主客、駕部、庫部、中兵、外兵の十八曹に郎があった。のちにまた主客、起部、水部を廃し、(最終的に)残ったのは十五曹である[33]
 宋の武帝のはじめ、これに加えて騎兵、主客、起部、水部の四曹に郎を置き、合計で十九曹となった。文帝の元嘉十年、また儀曹、主客、比部、騎兵の四曹の郎を廃した。十一年、みな復置した。十八年、刪定曹郎を増し、位は左民曹郎の上としたが、(刪定曹郎とは)魏の時代の定科曹郎のようなものであろう。三十年、また功論曹郎を置き、位は都官の下、刪定の上とした。また文帝のとき、騎兵を廃した。現在(宋)では合計で二十曹郎である。
 三公、比部には法制文書を管轄させている。度支は会計文書を担当した。「支」は「派」〔つかわし出す、みたいな〕、「度」は「景」〔意味不詳〕のことである。都官は軍隊の刑罰の文書をつかさどる。そのほかの曹の担当は、それぞれその名称のとおりである。

 漢の制度では、公卿・御史中丞以下の官が尚書令、僕射、丞、郎と偶然すれ違いそうになったら、みな車を避けてあらかじめ直接出くわすことをせず、台官〔尚書台の官の意〕が通過すれば、ようやく動くことができた。現在の尚書官は、朝廷に上るときと朝廷から下るときには、通行人と会うことが禁止されているが、それはちょうどその漢の制度のようなものである。また、漢の制度では、丞、郎が列曹尚書に面会するときは列曹尚書を「明時」と呼び、郎が左右の丞に会うときは左右丞を「左君」、「右君」と呼んだ[34]

 郎以下の官には、都令史、令史、書令史、書吏幹がいる。東漢では尚書令史十八人、晋のはじめでは正令史百二十人、書令史百三十人。晋から現在(宋)まで、減ったり増えたりしており、記録を定めがたい[35]。『漢儀』によると丞相令史があったというから、おそらく令史は前漢の官なのであろう[36]。西晋に尚書都令史の朱誕がいるので、都令史は最初に置かれてから久しいようだ〔都令史はおそらく令史のボスを指す〕[37]。令史は尚書同様、担当の曹ごとに分かれる。

 西晋の八坐・丞・郎は、朝と日暮れに都座〔政事の会議場〕で会議していたが、江左では朝だけとなった。八坐・丞・郎が新たに任命された際は(全員が)都座に集まり、礼を交わす。転任したときには交際を解いた。これも漢の旧制である。現在では八坐が交際を解くだけで、丞・郎が交際を解くことはなくなった 。尚書令は千石、僕射と列曹尚書は六百石、丞・郎は四百石[38]

 武庫令は一人。兵器(の管理)を職掌とする。秦の官である。二漢のとき、執金吾に所属していた。晋のはじめ、執金吾を廃したので、現在にいたるまで尚書庫部の所属である[39]
 車府令は一人。丞は一人。秦の官である。二漢、魏、晋ではみな太僕に所属していた。(東晋の哀帝のときに)太僕が廃されると、尚書駕部に所属した。
 上林令は一人。丞は一人。西漢では上林に八の丞、十二の尉、十の池監がいた。丞・尉は水衡都尉に所属していた。池監は少府に所属していた。東漢では上林苑令、丞が各一人あり、少府に所属していた[40]。江左では置かれなかった。宋の孝武帝の大明三年に復置され、尚書の殿中曹と少府の両方に(?)所属していた。
 材官将軍は一人。司馬は一人。土木工事の職人を管轄する。漢の左右校令がこの職務であった。魏は右校(の代わりに?)材官校尉を置き、天下の材木(事業)を管轄させた。江左では材官校尉を改称して材官将軍とし、また左校令を廃した。現在(=宋)、材官将軍は尚書の起部曹と領軍将軍に所属している[41]



―――注―――

[1]『漢書』巻19百官公卿表・上・応劭注「龍とは舜の臣の名前である。納言は現在(後漢)の尚書に相当し、王のノドと舌をつかさどる(龍、臣名也。納言、如今尚書、管王之喉舌也」、『太平御覧』巻212引『漢官儀』「尚書は堯・舜の時代の官が起源である。『尚書』に『龍が納言となった』とあり、『詩』に『仲山甫は王のノドと舌だ』とあるが、ともにこの官のことを言っている。秦はこの官を尚書に改名したが、漢もこの官を重視した。機密を管理する(尚書、唐虞官也、書曰『龍作納言』、詩云『仲山甫王之喉舌』、秦政改称尚書、漢亦尊此官、典機密也)」、同書同巻引『漢官解詁』「(尚書は)堯・舜の時代は納言と呼ばれ、『周礼』では内史と記されている。機密を管理する官で、(天子や朝廷の)号令が発せられるところでもある(唐虞曰納言、周官為内史、機事所総、号令攸発)」。
 王のノドや舌である、という比喩は『漢官解詁』末尾の「号令が発せられるところ(号令攸発)」の一文から理解できよう。後文の注などで説明を加えていくように、尚書は詔書や上奏などの文書を伝送していた機関のみならず、文書の作成(詔書)をもおこなっていたところでもある。それはたんに下書きを清書するといったような事務ではなく、文章になっていないある政事内容・判断を文章化するのだから、当然それには比喩などをはじめとした高度な文飾表現の技法が求められるだろう。もちろん、実際の作成業務は下っ端(尚書郎)の担当だが、ともかく、尚書によって、天子の詔書は形をなし、公表されるわけなのだから、これなしではなにも言葉を発することができないというわけだ。上述の比喩はこうした役割を言っている。尚書は作文技術でメシを食っていたとも言えよう。[上に戻る]

[2]『太平御覧』巻212引『韋昭辯釈』「尚、上也、言最在上揔領之也、辯云、尚、猶奉也、百官言事当省案平処奉之、故曰尚書、尚食・尚方亦然」。[上に戻る]

[3]『太平御覧』巻211引『謝霊運晋書』「古者重武事、貴射御、取其捷御如僕、各置一人、尚書六人、謂之八座、参摂百揆、出納王命、古元凱之任也」。[上に戻る]

[4]「左右曹諸吏」は原文ママ。『漢書』百官公卿表・上に「侍中左右曹諸吏散騎中常侍、皆加官。・・・侍中、中常侍得入禁中、諸曹受尚書事、諸吏得挙法」とあり、「左右曹諸吏」で一つの官名のようにも読めるが、後文で加官を説明する際に、尚書の奏事を担当する「諸曹」と弾劾をつかさどる「諸吏」とに分割して説明されており、「左右曹諸吏」は「左右曹と諸吏」と読むべきであるようだ。諸吏も尚書の奏事を評議する職掌をになっていたことについては、米田健志「前漢後期における中朝と尚書――皇帝の日常政務との関連から」(『東洋史研究』64-2、2005年)を参照。[上に戻る]

[5]『晋書』巻24職官志「録尚書、案漢武時、左右曹諸吏分平尚書奏事、知枢要者始領尚書事。張安世以車騎将軍、霍光以大将軍、王鳳以大司馬、師丹以左将軍並領尚書事。後漢章帝以太傅趙憙、太尉牟融並録尚書事。尚書有録名、蓋自憙・融始、亦西京領尚書之任、猶唐虞大麓之職也。和帝時、太尉鄧彪為太傅、録尚書事、位上公、在三公上、漢制遂以為常、毎少帝立則置太傅 録尚書事、猶古冢宰総己之義、薨輒罷之。自魏晋以後、亦公卿権重者為之」。
上で言及されている「尚書」の起源について、班固『漢書』ではたしかに王鳳を「尚書」と記述している。いわゆる二十四史の記述で検索するかぎり、『晋書』の指摘どおり、初出は後漢の趙憙と牟融である。『晋書』職官志は荀綽『晋百官表注』や傅暢『晋公卿礼秩』をもとに編纂されたと思われるが、沈約は何に拠って本文のような記述をしたのだろうか。これまでもたびたび指摘してきたつもりだが、沈約の百官志は何承天の『宋書』をベースにしている可能性が高いので何承天がこの記述を残した可能性も考えられるわけだが、いずれにしろ、荀綽『晋百官表注』や傅暢『晋公卿礼秩』が優先度の高い参考書であったわけではないのかもしれない。
 ついでなので、「領」と「録」はどう違うのかということについて。鎌田重雄氏は「領」は尚書の職務を全体統括すると捉え、後漢の「録」は前漢の「領」が法制化したものだと述べており、実質的な差異はないものと考えているようである。鎌田「漢代の尚書官――領尚書事と録尚書事を中心として」(『東洋史研究』26-4、1968年)参照。
 これに対し冨田健之氏は、「領」の事例を検討したうえで、「領」は皇帝がおこなう上奏の決裁など(=「尚書事」)を助けるだけで、尚書の組織や業務を掌握する身分ではなく、この点において、尚書組織の掌握者として行政を取り仕切る後漢の「録」とは異なると論じている。冨田健之「漢時代における尚書体制の形成とその意義」(『東洋史研究』45-2、1986年)。
 この「領」の理解は米田論文([4]前掲)もおそらくだいたい同じで、「尚書事」を「領(代行する)」とは、尚書の業務(文書の伝送・作成)を代行するのではなく、尚書から送られてきた文書を皇帝に代わって決裁する、と理解している。
 こうした領尚書事の姿の一端を示す史料としてしばしば引用されるのが、『漢書』巻74魏相伝「漢の慣習では、上書するときは必ず二枚作成し、そのうち一つを控えとする。尚書事は(上書を受け取ったら)まず控えの封を切って(内容をチェックし)、内容がよくなければ却下し、上書を皇帝に上奏しない(故事諸上書者皆為二封、署其一曰副、尚書者先発副封、所言不善、屏去不奏)」。
 という具合に仮説が提出されている。とくに冨田説は氏の全体的な主張から理解する必要があるのだが、つまり「尚書事」の内容が「領」と「録」では異なっていると見ているのだ。「領」で代行するのは尚書の業務ではなく皇帝の尚書関連業務であり、「録」が管轄するのは尚書の業務になっているが、両者のやっていることに懸隔の差異があるのではない。こうした主張の基礎になっているのは、尚書の業務内容が時代を降るにつれて徐々に変化したということ、尚書が上書の内容を判断しはじめるようになった(から「録」すれば行政の中心になることができた)、ということである。近年ではこのような尚書像事態に疑問が向けられているが(後述)、それにともなって「録尚書」の新しい解釈が出てきたというわけでもない(管見の限り)。しいて言えば、後漢の「録」も冨田説の「領」と同じ意味なんじゃない?くらいは言えるかもしれん。[上に戻る]

[6]咸康ではなく咸和の誤りだろう。荀崧は咸和三年に、陸曄は咸和年間に没したことが各列伝に見えている。王導と陸曄は明帝の遺詔・顧命を受けたメンバーで、その際に録尚書事を与えられたことが確認できる(王導は成帝紀、陸曄は列伝)。荀崧は顧命こそ受けていないようだが、明帝崩御時に録尚書に任じられ、王導らとともに幼少の成帝を支えたという。というふうに、何充の言うとおりに確認はできたが、「六條事」の記述は確認ができなかった。[上に戻る]

[7]誰かわかる人がいたら、沈約がどういう計算で24にいたったのかを教えてくれないか・・・。
 まず沈約によれば、「三録」というのは條を均等に三等分したのではない。もしそうであれば3×6條で18條となるわけだが、それだったら王導だけ「録其一」と書くのは不自然である。「三録」は「三人の録尚書」をたんに意味しているだけだろう。沈約はこのように理解しているはずで、わたしもそれほど異論がない。
 で、沈約は当時の王導の立場も踏まえてのことだろうが、何充のあの表現は「荀崧と陸曄の録より王導の担当のほうが多い」と解釈しているようで、それがなぜか「王導の担当分は荀崧と陸曄の二人分に相当する」と計算したようだ。どうしてそうなった。
 なお、東晋は「二録」で、置くたびに「六條事」と言っているから全部で十二條だ、という話は、かなり怪しいにもかかわらず、ありうる。中央研究院で検索してみればわかるように、東晋穆帝以後は「録尚書六條事」がかなり目立つし、きっちり確認はしていないが、二人の録尚書を常任させている(一人が亡くなったら一人を追加で任命する)。なのでまあ、ありうる。
 でもそんなことはどうでもよくて、本当に24なのかが気になって仕方がない。なぜなの?
 ところでこの疑問とは別に、そもそも「六條」は何を指しているのかという問題も出てくる。矢野主税氏は「六條」は「六曹」のことと解し、要するに尚書のなかの六つの部署(「六曹」)を管轄するとしている。また、「録尚書事」は「録尚書○條事」と「総録」の二種があり、後者は全体統括者としてランクが高いが、東晋時代の尚書の曹は総数6(=列曹4~5+僕射1~2)だったので(したがって、矢野氏は沈約の12條解釈を退け、二人で六曹を担当したのだと解釈している)、「六條事」も実質的には全体の統括をおこなっていたと、かなり曖昧な結論を出している。どうしてそうなったかというと、史料の表記の仕方が混乱気味で、同一人物について、あっちでは「録尚書」、こっちには「総録」、そっちには「録六條」となってしまっている場合があり、よくわからんのである。なお、「録尚書六條事」は東晋時代には官名の一つとして定着しているフシがある。実際に「六條」を担当していかは別として。矢野主税「録尚書事と吏部尚書」(『史学研究』100、1967年)。
 すっきりしない部分が残るとはいえ、「條」の解釈についてはおおむね矢野氏の線で理解するほうがよさそうである。となると、二人いるから全体で十二條というのは軽率な計算になるだろう。[上に戻る]

[8]張華については、『太平御覧』巻210引『傅暢故事』「何劭、王戎、張華、裴楷、楊済、和嶠為愍懐太傅、通省尚書事。張華為光録大夫、尚書七條事、皆諮而後行」とある。庾亮は唐修『晋書』列伝に「録尚書事」になったと記されている。[上に戻る]

[9]唐修『晋書』列伝によると、二度「録尚書」になっている。[上に戻る]

[10]『太平御覧』巻210引『沈約宋書』「公で尚書事を録すのはいにしえの制度である。王粛は『尚書』舜典の『納于大麓』を解釈し、『堯は舜を顕貴の官に登用し、天下の政治を大録させた』と読んでいる(のがその証左である)。考えるに、漢は(当初)諸吏に尚書奏事を担当させていたが、のちに霍光を大司馬大将軍の位につかせたまま尚書奏事をおこなわせた。(以降、公の身分でもって尚書事をつかさどるのが通常となった。)諸公録尚書事、古制也、王粛解尚書『納于大麓』曰、『堯納舜於尊顕之官、使大録万機之政』。案漢氏諸吏平尚書奏事、後霍光以大司馬・大将軍平尚書事」。赤字は佚文?[上に戻る]

[11]時代は降るが、梁・天監七年の令では、いわゆる「四征将軍」あたりまでの上位の将軍号が「重号将軍」に分類されている。晋制でいうと四平将軍あたり以上に当たる。だいたい「三品将軍」や「金紫将軍」のことを指すと考えても良いかもしれない。[上に戻る]

[12]『続漢書』百官志3・本注「(尚書僕射は)尚書全般の業務を担当し、尚書令が不在の場合は章奏の上奏や詔令の下達などあらゆる仕事をおこなう(署尚書事、令不在則奏下衆事)」、同劉昭注引『蔡質漢儀』「僕射は(もともと)門を閉じることを職掌としていたが、(のちに)食糧や貨幣の支給関連の業務を担当するようになった(僕射主封門、掌授廩仮銭穀」、同劉昭注「臣昭案、献帝分置左右僕射、建安四年以栄邵為尚書左僕射、是也」。
 職掌に挙げられている「食糧や貨幣の支給関連の業務を担当する掌授廩仮銭穀」は本文でのちに引く『漢官儀』にも記されている。また曹魏以降は選部(吏部)尚書を兼任することもあったらしい。『太平御覧』巻211引『斉職儀』「魏朝以尚書僕射毛玠領選部曹。晋武以僕射領吏曹。後依擬至今或領焉」。
 左右の関係については、『晋書』職官志「尚書僕射の服飾、秩石、印綬は尚書令と同じである。調べてみるに、漢はもともと尚書僕射を一人置いていただけだが、漢の献帝の建安四年に執金吾の栄郃を尚書左僕射を置いた。尚書僕射が左右に分かれて置かれたのが、これが最初である。魏、西晋、東晋まで、(尚書僕射は)廃されたり置かれたり一定しなかったが、二人置く場合は左右を置き、一人だけ置く場合はたんに尚書僕射と呼んだ。(左右の僕射はいるけども)尚書令が不在の場合は左僕射が尚書省の主任となり、もし(尚書令が不在でさらに)左右の僕射も不在の場合は、尚書僕射を置き、左僕射の仕事を担当させる(服秩印綬与令同。案漢本置一人、至漢献帝建安四年、以執金吾栄郃為尚書左僕射、僕射分置左右、蓋自此始。経魏至晋、迄於江左、省置無恒、置二、則為左右僕射、或不両置、但曰尚書僕射。令闕、則左為省主、若左右並闕、則置尚書僕射以主左事」。これによると左僕射のがえらかったらしい。
 ただ宋代では事情が違ったようで、『通典』に「宋の尚書僕射は右が優越して左が下位であり、右僕射は尚書令と左僕射の中間に位置した。僕射は法令を護持するのが仕事で、二人置かれた場合は左右とも法令の護持をなした。また列曹尚書と同様、曹の管轄もおこない、不法の摘発も職務とした(宋尚書僕射勝右減左、右居二者之間。僕射職為執法、置二則為左右執法。又与尚書分領諸曹、兼掌弾挙)」。[上に戻る]

[13]尚書令については特別に言及がないが、要するに尚書のボス以外に書くことが特にないのだろうと思われる。尚書令は漢代以来、千石、銅印墨綬、魏以降はその秩石印綬に似合わず三品、この官位は劉宋でも同様。なお『続漢書』百官志3・本注には「武帝は宦官を(尚書に)登用し、(尚書令を)中書謁者令に改称した。(しかし)成帝は士大夫を(尚書令に)登用し、名称を旧来のもの(=尚書)に戻した。(尚書令)は官吏の任命や上奏、(天子の)令の下達などの文書業務全般を職掌とした(武帝用宦者、更為中書謁者令、成帝用士人、復故。掌凡選署及奏下尚書曹文書衆事)」ともあり、武帝のときは宦官を就けていたらしい。
 魏晋のころの尚書令に関する佚文に、『太平御覧』巻210引『晋公卿礼秩』「尚書令、拝受命、皆策命、薨則於朝堂発哀、古之冢宰、以在端右故也」がある。
 よく知られているように、尚書は後漢ころから権力が目立つようになり、魏晋になると尚書省が九卿に代わって実質的な行政機関となったとされている。『通典』は「後漢の政務はすべて尚書に集まり、三公はたんに決まった仕事を受けるだけであった(後漢衆務、悉帰尚書、三公但受成事而已)」、「魏晋以降、尚書の職務は枢要を担うようになり、大小あらゆる業務が尚書令と尚書僕射に帰した(魏晋以下、任総機衡、事無大小、咸帰令僕)」と記述している。この尚書省も中書省が出てくると、これまた権力が剥落していったようで、『通典』に「魏は中書省を設け、中書監と中書令を置くと、中書が枢要の職務を遂行するようになり、尚書の権力は徐々に失われていった(魏置中書省、有監・令、遂掌機衡之任、而尚書之権漸減矣)」。
 研究上においても、これまでは上述の理解に沿って尚書の研究がおこなわれてきており、例えば冨田健之氏は漢代にかけて徐々に尚書を中心とした国政運営が形成されたことを論じているが(「後漢前半期における皇帝支配と尚書体制」〔『東洋学報』81-4、2000年〕など。氏は尚書中心の行政運営を「尚書体制」と呼んでいる)、近年では尚書の役割を必要以上に強調し過ぎているとの批判が出てきており、例えば渡邉将智氏は、尚書の業務はあくまで文書の伝達であって政策形成に直接関与するものではなく、政策形成をおこなう公・卿などの官衙、それに可否をくだす皇帝とのあいだを動くのであって、それぞれが連携して動くことで政策が実現されるのだという、全体的な観点から尚書の位置づけを試みており、尚書一極支配の視点を相対化している。かかる視点は宮崎市定氏の「連合艦隊」という比喩を想起させるもので、傾聴すべき見解であると同時に、妥当な意見であると思われる。渡邉「後漢洛陽城における皇帝・諸官の政治空間」(『史学雑誌』119-12、2010年)など、また米田論文([4]前掲)も参照。
 しかし、魏晋から東晋にかけて、その肝心の公卿の仕事がほとんどなくなっていくというのも事実らしいので、後代になってどうして尚書が台頭して卿は相対的に低くなったのか、高望みではあるが、そのあたりの展望も聞きたいところである。[上に戻る]

[14]『漢書』では、成帝ははじめ五人を設けたとの記述があり、その五人は常侍曹、二千石曹、戸曹、主客曹、三公曹としている。『漢書』巻10成帝紀・建始四年「四年春、罷中書宦官、初置尚書員五人」、同師古注「漢旧儀云、『尚書四人為四曹、常侍尚書主丞相御史事、二千石尚書主刺史二千石事、戸曹尚書主庶人上書事、主客尚書主外国事。成帝置五人、有三公曹、主断獄事』」。
 同様の記述をするのが『続漢書』百官志3・劉昭注引蔡質『漢儀』「(四曹のうちの一つは?)毎年の成績集計を管理する。三公尚書は二人で、三公の文書を担当する。吏曹尚書は選挙や祭祀を担当し、三公曹に所属する。霊帝の末年、(吏曹は選部に改められ、)梁鵠が選部尚書となった(典天下歳尽集課事。三公尚書二人、典三公文書。吏曹尚書典選挙齋祀、属三公曹。霊帝末、梁鵠為選部尚書)」。
 対して『晋書』職官志では、五人=僕射一人+列曹四人とし、のちに三公曹が加わって五曹になったと記している。「至成帝建始四年、罷中書宦者、又置尚書五人、一人為僕射、而四人分為四曹。・・・後成帝又置三公曹、主断獄、是為五曹」。鎌田氏や冨田氏をはじめ、先行研究ではこの『晋書』の記述を妥当と見ている。とすれば、本文の記述も妥当なんだね。なお三公曹の職掌については史料間で異同が生じているが、ようわからん。[上に戻る]

[15]『続漢書』百官志3・劉昭注引『漢旧儀』「亦云主刺史」。[上に戻る]

[16]『続漢書』百官志3・劉昭注引『蔡質漢儀』「常侍曹は常侍、黄門、御史関連の文書を担当する。光武帝は常侍曹を吏曹に改称した(主常侍黄門御史事、世祖改曰吏曹)」。常侍曹の記述は本文および『漢旧儀』([14]前引)と異なっている。整理すると、
 『宋書』『漢旧儀』→常侍曹:公卿  三公曹:断獄
 『漢儀』→常侍曹:侍官 三公曹:三公関連
 どうなんでしょう。[上に戻る]

[17]四曹から光武帝の改革にいたるまでの記述は『続漢書』本注の記述とほぼ同じ。[上に戻る]

[18]『続漢書』百官志3・本注「尚書左丞は吏と民からの上奏と騶伯史〔詳細不明〕を担当した(左丞主吏民章報及騶伯史)」。また晋代の左丞については、『太平御覧』巻213引『晋書百官表志注』「尚書左丞が担当するのは、尚書台内の禁令管理、宗廟や祭祀、朝廷の礼制、弾劾(?)、官吏の任命、近侍的案件に関する文書の検討、官吏の休暇についてである(左丞主台内禁令、宗廟祠祀、朝儀射制、弾案、選用署吏、稽近道、文書給仮)」。この記述は『晋書』職官志と多少の字の違いはあるものの、ほぼ同じ文章なのだが(というか『晋書』が『百官表注』を引用している)、『御覧』に引く『百官表注』のほうがより節略が少なく、正確に文意を読み取ることができるので、ここでは『百官表注』のほうを引用した。[上に戻る]

[19]『続漢書』百官志3・本注「尚書右丞は印綬の授与、筆記用具などの道具類の在庫関係を担当する(右丞仮署印綬、及紙筆墨諸財用庫藏)」、同劉昭注引『蔡質漢儀』「尚書右丞は尚書僕射と食糧や貨幣の支給関連の業務を担当し、尚書左丞と合わせてあらゆる事柄を管轄する(右丞与僕射対掌授廩仮銭穀、与左丞無所不統)」。
 [18]の左丞もそうだが、『宋書』本文は蔡質『漢儀』や応劭『漢官儀』と親和的だが、司馬彪の本注とはかなり食い違っている、というより司馬彪だけなんか違う。珍しい・・・かも。
 晋代の右丞については、『太平御覧』巻213引『晋書百官表志注』「尚書右丞が担当するのは、尚書台内の倉庫や建物(の管理)、(各所に支給する)道具の在庫整理と民への食糧支給、徴税、刑罰、武器、長期的案件に関する文書の検討、章・表・奏の上奏文書である(右丞主台内庫蔵廨舍、量物用多少、及廩賜民戸、租布、刑獄兵器、稽遠道文書、章表奏事)」。『晋書』職官志との関係は[18]と同様。宋代については『通典』「宋の尚書右丞は晋の制度を継承しつつ、さらに貨幣と穀物も担当するようになった(宋因之、而右丞亦主銭穀)」。
 なお『太平御覧』巻213引『宋書百官志』に「晋宋の時代、尚書左丞は尚書台内の禁令、宗廟や祭祀、朝廷の礼制、官吏の任命関連の文書を担当し、(さらに)不法を摘発し、いみはばかることがなかった(晋宋之世、左丞主台内禁令、宗廟祠祀、朝儀礼制、選用署吏、糺諸不法、無所廻避)」、同引同書に「尚書右丞は尚書台内の倉庫、用具類、建物、刑罰、武器関連の文書を担当した(右丞掌台内庫蔵、凡諸器物、廨舎、刑獄兵器)」と、ほぼ『晋書』職官志の記述と重なる文章が引用されている(『初学記』巻11にも同じく引用)。佚文の可能性あり。[上に戻る]

[20]ここに引用された応劭『漢官儀』の記述は『続漢書』百官志3・劉昭注に引く蔡質『漢儀』と重なるものが多い。[上に戻る]

[21]『晋書』職官志「祠部尚書は右僕射と職務が重なっているので、つねに置かれるわけではなく、(置かれない場合は)右僕射に職務を担当させる。右僕射が不在の場合は、祠部尚書に右僕射の仕事をおこなわせる(祠部尚書常与右僕射通職、不恒置、以右僕射摂之、若右僕射闕、則以祠部尚書摂知右事)」。[上に戻る]

[22]『太平御覧』巻210引『斉職儀』「秦漢の時代、政治は公や卿が担い、尚書の仕事はといえば、(尚書令は)上奏や(天子の)令に封をしたり(?)、文書(作成)の補助といった業務で、僕射は門の開閉管理、尚書令が不在の場合は僕射が代わりにおこなった。(降って)魏は尚書八座の官を重視したので、尚書の仕事が秦漢の六卿に等しくなった。かつて舜は八元八凱の賢人を登用し、朝命を隆盛させたが、現在(南斉?)では尚書八座をその(八)元(八)凱になぞらえ、賢人や有能な者が(正しく)要務を担うこと、かつての舜の時代の再現であると言い合っている(秦漢之世、委政公卿、尚書之職、掌封奏令賛文書、僕射主開閉、令不在則僕射奏下其事。魏氏重内職八座、尚書任同六卿、舜挙八元八凱、以隆唐朝、今号八座為元凱、謂賢能用事義如昔也)」。[上に戻る]

[23]『太平御覧』巻215引『漢官儀』「尚書郎四人、一主匈奴単于営部、一主羌夷吏民、一主天下戸口・田墾作、一主銭帛・貢献・委輸」。ここに引用された『漢儀』の文章とほぼ同じ。[上に戻る]

[24]『通典』「(尚書郎は)文書の作成を職掌とする。五十歳未満の孝廉合格者から登用するが、(その際には)まず箋や奏などの上奏文作成を試験に出し、出来の良い者を選抜する(主作文書起草、取孝廉年未五十、先試箋奏、選有吏能者為之」。
 記憶が曖昧だが、漢代、郡国から孝廉に察挙された者は、光禄勲所属下の三署の郎中に任命され、そこでしばらく勤務したのち、県令などの官へ移っていき、出世街道を進んでいったはずである。三署郎中ではなくいきなり尚書郎に任命された者は、とびきり優秀か、文書の作成業務に優れていたか、どっちかだろうけど詳しくはわからない。なお、ここでは尚書郎の候補者に五十歳未満の孝廉しか書かれていないが、[25]で引用する『漢儀』にあるように、エリート官僚の卵として三署で育成された郎中もまた、尚書郎の候補者だった。
 ここで言われている文書の作成とは、あらかじめできあがっている文章の下書きを清書するとかそういうものではなく、内容は決まっているが表現は決まっていないもの、文章になっていないものを綺麗な文章に仕上げるのが彼らの仕事だったのではないかと想像される。文章の作成能力が試験されたのはそのためだろう。字が書ければそれで十分ではなかったのだ。彼らの作成する文章には詔や令、すなわち皇帝が下す文章がまず挙げられるが、そのほかの文章、例えば官僚から皇帝に奉ずる章・表・奏はさすがに彼らが作成したものではないだろう、それらに関しては官僚から提出された文章の伝送、校閲に限られていた・・・はずだと思うのだが、上引の『通典』には「箋」や「奏」の作成を試験に出してるんだよね・・・。勉強不足なのでそこまではわかりません。[上に戻る]

[25]『続漢書』百官志3・劉昭注引『蔡質漢儀』「尚書郎は三署〔五官中郎、左中郎、右中郎のこと〕の郎が尚書台の試験を受けて選抜される。就任当初は守尚書郎と呼ばれるが、一年経つと尚書郎、三年経つと侍郎と呼ばれるようになる(尚書郎初従三署詣台試、初上台称守尚書郎、中歳満称尚書郎、三年称侍郎」。『通典』はこの文章につづけて、「五年で大県の県令に異動する。県令となって任期が満了し、(つづけて?)県令を希望する者には(?)、(朝廷の)三万銭と三台〔尚書台、御史台、謁者台〕の保有している銭を天子から下賜したが、その他の官(を希望した者)の場合は下賜しなかった。吏部曹の郎は激務だったが、飛び級で昇進する者が多かった。鄭弘は僕射に就くと、尚書台の(郎の)職務は重要なのだが俸禄が低く、活き活きと働いている者がいない、(五年勤務した)尚書郎を二千石に就けて欲しい、と上奏した。これ以後、二千石に就けられるようになった五歳遷大県。其遷為県令、県令秩満自占県、詔書賜銭三万与三台租銭、余官則否。吏部典劇、多超遷者。鄭弘為僕射、奏以台職任尊而賞薄、人無楽者、請使郎補二千石、自此始也)」。
 引用文末尾のことにかんして、前引の『蔡質漢儀』に、尚書郎は「二千石や刺史に飛び級で昇進する(劇遷二千石或刺史)」とあるので、刺史になることもあったらしい。優秀なやつは守相か刺史、一般的には県令、ということなのだろう。[上に戻る]

[26]『太平御覧』巻215引『漢官儀』「尚書郎は文書の作成を職掌とする。仕事の際は建礼門内の尚書台に五日間宿直する(尚書郎、主作文書起草、夜更直五日於建礼門内)」、『通典』「尚書八座は(天子から?)決定した政務を知らされると、それを郎に下し、詔書を書かせ、それを発布する(八座受成事、決於郎、下筆為詔策、出言為詔命)」。
 渡邉氏の宮城図([13]前掲論文)によると、後漢の尚書台は洛陽宮城の南宮に復元されている。[上に戻る]

[27]『漢書』百官公卿表・上・師古注「太官主膳食、湯官主餅餌」。太官、湯官とも前後漢では少府の属官だが、魏晋では異動を重ね、劉宋期には太官が門下省の所属(『宋書』百官志・下に記述有)、湯官はわからん状態。[上に戻る]

[28]『後漢書』列伝31鍾離意伝李賢注引『蔡質漢儀』「尚書郎入直台中、官供新青縑白綾被、或錦被、昼夜更宿、帷帳画、通中枕。臥旃蓐、冬夏隨時改易。太官供食、五日一美食、下天子一等。尚書伯使一人、女侍二人、皆選端正者。伯使従至止車門還、女侍吏絜被服、執香鑪燒燻、従入台中、給使護衣服」。本文よりやや詳しくなった感じの記述。また本文では名前だけ出てた伯使についてもちゃんと書かれている。「止車門」は宮城と禁中の境になる門のことらしい。伯使は基本的に尚書郎にずっと侍っているが、尚書郎が皇帝に上奏する際、禁中に入ることは許されなかった、ということだろうか。後漢洛陽城の宮城図については、[13]前掲の渡邉論文を参照。[上に戻る]

[29]『初学記』巻11引応劭『漢官儀』「尚書郎含鶏舌香、伏奏事、黄門郎対揖跪受、故称尚書郎懐香握蘭、趨走丹墀」。[上に戻る]

[30]『太平御覧』巻215引『漢官儀』「尚書郎、給青縑・白綾被以錦被、帷帳・氈褥・通中枕、太官供食、湯官供〔麦+并〕餌・五熟果実、下天子一等級、尚書史二人、女侍史二人、選端正従直、女侍執香鑪焼薫、従入台護衣、奏事明光殿、省皆胡粉塗画古賢人・烈女、郎握蘭含香、趣走丹墀、奏事黄門郎、与対揖、天子五時賜服、若郎処曹二年、賜遷二千石・刺史」。本文のここの記述とほぼ同じ。どうやらこの箇所の本文は蔡質『漢儀』([28])や応劭『漢官儀』を引き写した内容であるらしい。[上に戻る]

[31]中華書局の校勘記も指摘しているが、ここの「十七曹」は計算としても数が合ってないし、後文の記述とも齟齬が生じる。[上に戻る]

[32]『通典』によれば、桓玄が即位した際に賊曹に改称された。[上に戻る]

[33]『通典』「魏の黄初年間以降、秘書が中書に改称され、中書に通事郎が置かれ、詔書(などの文書)の起草を担当するようにな(り、尚書の仕事が奪われた形にな)ったが、それでも尚書郎は依然、二十三人置かれていた。しかし漢代のような職務ではなかった。・・・(魏の時代は)尚書郎が一人欠員になるたび、孝廉で作文能力のある者五人を試験し、合格者の姓名を封をした上奏文で天子に報告し、欠員を埋める。晋の尚書郎は、爽快な美男子が選抜されたので、将来の大臣と呼ばれていた。・・・晋代は三十五の曹が置かれていたが、郎中は二十三人だったので、一人が複数の曹を担当していた。・・・東晋以後、尚書郎の官資(ランク?)は下がった(魏自黄初、改秘書為中書、置通事郎、掌詔草、而尚書郎有二十三人、非復漢時職任。・・・毎一郎缼、白試諸孝廉能結文案者五人、謹封奏其姓名以補之。晋尚書郎、選極清美、号為大臣之副。・・・為三十五曹、置郎中二十三人、更相統摂。・・・自過江之後、官資小減」。
 どう仕事が変化したのかはわからない。[上に戻る]

[34]『続漢書』百官志3・尚書僕射・劉昭注引『蔡質漢儀』「公、卿、将軍、大夫、校尉が(宮中の)複道〔二階建式の通路〕で尚書僕射・左右丞・郎、御史中丞・侍御史に偶然すれちがいそうになったときは、車をわきに避けて道を空ける。衛士が尚書台・御史台の官とすれ違わないように調整し、台官が通り過ぎてから進むことができる凡三公・列卿・将・大夫・五営校尉行復道中、遇尚書僕射・左右丞・郎・御史中丞・侍御史、皆避車豫相迴避。衛士伝不得迕台官、台官過後乃得去)」、同尚書郎・劉昭注引『蔡質漢儀』「御史中丞が尚書丞・郎と偶然すれちがいそうになったときは、車をわきに避けて、朝笏を手にしてその場に止まり、拱手の礼をとる。尚書丞・郎は車に座ったまま、手を挙げて返礼する。車が遠くに行ってから、ようやく進むことができる。列曹尚書が左右の丞に報告するときは(?)、『あえて詔書律令の通りに申し上げます』と必ず言う。尚書郎が左右の丞に会うときは、互いに拱手の礼をとるが、敬意の品物を贈る必要はなく、(丞のことを)左君、右君と呼んだ。丞と郎が列曹尚書に会うときは、朝笏を持って互いに拱手の礼をとり、(列曹尚書のことを)明時と呼ぶ。(丞と郎が?)尚書令と僕射に会うときは、朝笏を持って拝礼し、祝いのあいさつを述べ、互いに拱手の礼をかわす御史中丞遇尚書丞・郎、避車執板住揖、丞・郎坐車挙手礼之、車過遠乃去。尚書言左右丞、敢告知如詔書律令。郎見左右丞、対揖無敬、称曰左右君。丞・郎見尚書、執板対揖、称曰明時。見令・僕射、執板拜、朝賀対揖)」。
 『漢儀』の文章について、想定されているシチュエーションは複道での接触なわけだが、後漢洛陽宮城における複道は北宮と南宮を結ぶ通路であったらしい。尚書が禁中に入れることは注[28]で示唆したおいたし、渡邉将智氏もまたそのように指摘しているが、これに対して公卿などの官は皇帝からのお呼び出しがない限り、基本的には禁中に入ることができないものと考えられる。つまり、複道で出会うケースは稀であると想定される。
 また後漢の尚書台が南宮にあったらしいことは前述したが([26]および渡邉[13]前掲論文)、尚書が複道を恒常的に使用していたのだとすれば、尚書は複道を渡って南宮から北宮に行き、皇帝から上奏の決済判断、皇帝への上奏をおこなっていたと考えることもできよう。[上に戻る]

[35]『太平御覧』巻213引『斉職儀』「自魏晋宋斉、正令史・書令史、皆有品秩、朱衣執板、進賢一梁冠」。[上に戻る]

[36]『太平御覧』巻213引『漢官儀』「『蒼頡篇』〔漢代に広く流通した字の教科書〕を修得した者は蘭台令史に任命され、そこから一年で尚書令史に、さらに一年で尚書郎に昇進し、その後は尚書郎同様、県令になる。尚書郎と尚書令史は仕事を分担しておこなう。尚書令史が僕射と列曹に会うときは、朝笏を持って拝礼し、丞・郎に会うときは朝笏を持って拱手の礼をとる能通蒼頡史篇、補蘭台令史、満歳補尚書令史、満歳為尚書郎、出亦与郎同、宰百里、郎与令史分職受書、令史見僕射・尚書、執板拝、見丞・郎、執板揖)」、まあここで言われている『漢儀』の文章とは違うけど、関連があるってことで。『通典』「(尚書令史は)すべて蘭台や符節台で熟練した者を就けさせる。尚書郎は当初、尚書令史とともに文書業務を担当しており、同じ仕事をおこなっていた。尚書郎に欠員が出ると、長く務めている令史を郎に任ずる。光武帝が(令史には)孝廉を登用するように定めると、孝廉たちは(令史に就くことを)恥とした。漢代では、任期が来ると尚書郎は県令に任じられ、令史は県丞や県尉に任じられた。・・・(晋のときに)賈充が尚書令となると、彼は目の病気だったので、省事〔「事を省(み)る」の意〕の吏四人を設けたいと上表した。以後、尚書は省事を置くようになった。省事の官品と職掌は令史と同じである(皆選蘭台符節簡練有吏能者為之、其尚書郎初与令史皆主文簿、其職一也。郎缼、以令史久次者補之。光武始革用孝廉、孝廉耻焉。旧制、尚書郎限満補県長、令史補丞尉。・・・賈充為尚書令、以目疾、表置省事吏四人、尚書置省事、自此始也、其品職与諸曹令史同)」。[上に戻る]

[37]『通典』巻22・職官典4・歴代都事主事令史「晋には尚書都令史が八人置かれていた。秩は二百石、左右の丞とともに尚書台の業務全般を職掌とする。宋と斉では八人、梁では五人で、五都令史と言われた。職掌は晋代と変わらない(晋有尚書都令史八人、秩二百石、与左右丞総知都台事。宋斉八人、梁五人、謂之五都令史、職与晋同)」。都令史は令史のボスみたいな官だと思ってたけど、その理解でいいのかどうか、この記述では判断しにくいね。[上に戻る]

[38]『通典』「この組織を総称して尚書台と言う。あるいは中台とも呼ぶ。重要な案件は八座全員の連名で合意を取るが、もし合意が取れない場合、(賛成できない八座の者は)異議を申し立てることができる。・・・宋では尚書寺と言った。建礼門の内側に位置していた。尚書省、内台とも呼んだ。八座が尚書寺に出勤するときは、その門生も入ることができるのだが、制限人数は官によって違っている。ただし門生のなかに士〔貴族?みたいな?〕を含むことはできない。すべての尚書官は、重罪の場合は免官とし、小さな罪の場合は追放となる。追放されて百日の間、補充の人員が見つからなければ、復帰が許可される。尚書令と僕射は、御史中将と同様、分道制〔他の官僚とは違う道路を使用しなければならないことか、[34]参照〕を適用された。尚書令と僕射はそれぞれ威儀〔禁軍の兵士?〕十八人を支給した。晋以降、八座や尚書郎が上奏業務をおこなうことは少なくなった(総謂之尚書台、亦謂之中台。大事八座連名、而有不合、得建異議。・・・宋曰尚書寺、居建礼門内、亦曰尚書省、亦謂之内台。毎八座以下入寺、門生随入者各有差、不得雑以人士。凡尚書官、大罪則免、小罪遣出。遣出者百日無代人、聴還本職。其令及二僕射出行分道之制、与中丞同。令・僕各給威儀十八人。自晋以後、八座及郎中多不奏事)」。
 尚書寺があったとされる建礼門は建康宮城の東端にあったらしい。宮城図は渡辺信一郎『中国古代の王権と天下秩序――日中比較史の視点から』(校倉書房、2003年)p. 152などを参照。
 なお、上の『通典』の文章はやけに宋代の内容が詳しい。『太平御覧』巻212を見ると、「宋書曰、尚書官大罪則免、小罪則出、出者百日無代人、聴還本職」と、『通典』とほぼ同一の文章が見えており、上引の『通典』の文章は『宋書』百官志の佚文である可能性が高いと思われる。
 また『通典』にも記録されていない規定として、『太平御覧』巻212引『宋志』に、「尚書令(?)が三公に面会する際、および尚書丞と郎が尚書令・僕射・列曹に面会する際は、どちらも門の外で車から下り、くつをはいたまま門をまたぎ、そうしてからくつを脱いでしまう(令朝士詣三公、尚書丞郎詣令・僕射・尚書、並門外下車、履度門閫、乃納履)」というものがある(どの場所(門)での面会のことなのかはよくわからない)。こちらも百官志の佚文である可能性がある。[上に戻る]

[39]『通典』巻25職官典7・衛尉卿・武庫令「両漢曰武庫令、属執金吾。・・・魏晋因之、晋後属衛尉。宋斉武庫令丞、属尚書庫部」。本文の説明と若干異なる。[上に戻る]

[40]『続漢書』百官志三・少府卿・上林苑令「天子の苑囿に生息している動物を管理する。また、しばしば民の住居があるので、その場合は住居管理もおこなう。(官吏が?住民が?)動物を捕獲した場合は太官に送る(主苑中禽獣、頗有民居、皆主之、捕得其獣送太官)」。[上に戻る]

[41]ここの材官将軍は雑号将軍のそれとはおそらく別であろう。・・・おそらく。
『通典』巻27職官典9・将作監・左右校署に「魏は左校と右校を材官(校尉)に合併した。晋では左校、右校は少府に所属していた。宋以後は左校の令と丞が置かれていた(魏併左校・右校於材官、晋左右校属少府、宋以後並有左校令・丞)」とあり、本文の説明とはだいぶ異なっている。どちらが妥当か判断がつきにくい。[上に戻る]

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