2014年5月18日日曜日

『晋書』の載記について

 できたら近いうちに前回の李氏の話のつづきを書きたいと思っているのだけど、その前にやや史料のお話をしておいたほうがよさそうなので。
 といっても、今回の記事は李氏ではなく、匈奴劉氏の政権である漢・趙を中心に書きます。李氏はいずれ。長文&やや専門的なので、その点ご了承ください。

『晋書』載記
 特徴としては以下が挙げられる。
①載記冒頭に序文がついていること。
②十四国が項目に立てられていること(漢・前趙、後趙、前燕、前秦、後秦、成・漢、後涼、後燕、西秦、北燕、南涼、南燕、北涼、夏)。
③名臣などの伝が載記末尾に付記される場合があること。
④君主の即位には「僭」字を必ず使ったり、晋の軍隊を「王師」と表記したりすること。
 ②などは特に不思議に思わない人もいるだろうが、じつはとても重要である。念頭に置いてほしい。
 『晋書』はいろいろと問題が指摘されてはいるものの、五胡時代の史料で体系的にまとまったかたちで残存しているのはこの載記のみ。なので、これを基礎にせざるを得ないのが現状。その基本資料がどういうなりたちをもっているのか、推測がかなり交じってしまうけれども、そのあたりの考察は必要でしょう。


『魏書』
 巻95~99にかけて、五胡関連(および南朝)の列伝が並んでいる。項目は十四(後燕、南燕などは「徒何慕容廆伝」に一括され、赫連勃勃は「鉄弗劉虎伝」に記されてる)。巻95には五胡に関する序文もあるが、『晋書』の載記とはだいぶ違う。ただ、諸列伝の内容はおおよそ載記のダイジェスト版みたいなものになっている(少なくとも漢・前趙に関してはそう言える)。『魏書』は北斉の魏収によって編纂された史書で、唐の『晋書』よりも当然ながら成立が早いにもかかわらず、どうして『魏書』は『晋書』のコンパクト版になっているのか。ここは大事なポイント。
 史料的には載記よりも情報量は劣る。漢・前趙関連で言えば、それほど『魏書』に独自な記述はなかったと思う。しかし、他のところでは独自史料があったりするかもしれないんで、見逃さないほうがよろしい。


『十六国春秋』
 ところで、北魏の五行をみなさんはご存じだろうか。唐代の公式見解では、王朝の五行は次のように継承されていた。
漢(火)→曹魏(土)→晋(金)→北魏(水)→北周(木)→隋(火)→唐(土)
 北魏は晋の金徳を承けて水徳、これを覚えておこう[1]

 以下では、川本芳昭「五胡十六国・北朝時代における「正統」王朝について」(『九州大学東洋史論集』25、1997年)、梶山智史「崔鴻『十六国春秋』の成立について」(『明大アジア史論集』10、2005年)を参照にして、『十六国春秋』のことについて簡単にまとめておこう。
 『十六国春秋』は北魏末に編纂された史書である。撰者は崔鴻(本貫は清河)。梶山氏によると、彼が執筆活動を開始したのは景明年間(500-503年)のはじめころ、崔鴻20代前半のころであった。完成は正光三年(522年)、45歳のとき。序と年表各1巻を加え、全102巻であったという。残念ながら現在では散佚してしまい、『太平御覧』などに引用された佚文が残るのみである。
 川本氏によると、もともとの書名はたんに「春秋」であった可能性もあるらしいが、そうであったにしても、「十六国」を対象に歴史叙述をしていると見て大過ない。崔鴻は十六国各国で編纂された国史(『隋書』経籍志では「覇史」に分類されている史書)などの資料を収拾し、それらを参考にして一書を著わしたとのこと。従来、この時代をひとつにまとめて記した史書が存在しなかったことが崔鴻の執筆動機であったとされる。

 構成は『三国志』をイメージしてもらえるとわかりやすいが、まず各国ごとに大きなブロックが設けられ、そのなかにさらに伝が立てられる、といった具合。前者の区切りには「録」字を使う(前趙録、後趙録、蜀録)。後者には「伝」を使う(苻堅伝)。たとえば前趙録には劉淵伝、劉和伝、劉聡伝、劉粲伝、劉曜伝あたりが立てられていたと思われる(劉和と劉粲はちょい微妙だが)。「春秋」という名称からしても、おそらく編年体に近い体裁だったと思われるので、各録は編年体の形式で記述されていたのではなかろうか。だとすれば、「伝」は基本的に君主のみ立てられ、臣下の「伝」は独立して立てられていなかったと考えられる。以前記事にしたが、この時期の編年体は臣下たちの列伝を編年の途中で挿入する形式を有していたので、臣下たちの列伝も各君主の「伝」のなかに組み込まれていたのではないだろうか。

 『十六国春秋』の特徴として、梶山氏が陳寿『三国志』と比較しているのはとても素晴らしい着眼点である。すなわち、周知の通り、『三国志』には「正統」王朝が存在している。魏が「正統」なので、魏書にのみ本紀が存在し、蜀書・呉書はすべて列伝になっているわけ。ところが、『十六国春秋』には正統王朝が存在しない。川本氏・梶山氏の検討によると、『十六国春秋』で叙述されている各国はすべて「僭」、つまり非正統王朝として記述されているのだ。しかもこの見方は、孝文帝以後の北魏において、公式に取られた見解とも一致するのだ。

 もう少し詳しく見ておこう。さきほど北魏の五行について確認をしておいた。唐代、北魏は晋の金徳を継承して水徳となっている。しかし、じつはこの考え方もまた、孝文帝時代に確立されたものなのである。
 かの拓跋珪(道武帝)が即位した当初は、北魏は土徳を称していた。どうしてかと言えば、拓跋氏は黄帝の子孫だから、ということであったらしい。他にも理由は色々あったかもしれないが、ともかく土徳を採用していたことは間違いない。これが改革されたのが孝文帝のときであった。
 『魏書』巻108・礼志一によると、太和14年(490年)、孝文帝は北魏の五行について議論するように詔をくだしている。いままでなんとなくで土徳にしていたけど、ホントにそれでいいのか考えようぜ、っていう感じの内容だ。
 この詔を受けた会議において、高閭は土徳のままにすべきで変えてはならないと意見を述べている。重要と思われる一節を以下に引用してみよう。
魏は漢を継承しておりますが、火は土を生じさせるので、魏は土徳でございます。晋は魏を継承しておりますが、土は金を生じさせるので、晋は金徳でございます。〔おそらく後趙を指す〕は(金徳の)晋を継承しておりますが、金は水を生じさせるので、趙は水徳でございます。(前)燕は趙を継承しておりますが、水は木を生じさせるので、燕は木徳でございます。(前)秦は燕を継承しておりますが、木は火を生じさせるので、秦は火徳でございます。秦がまだ滅んでいないとき、わが魏はまだ中原〔原文「神州」〕を領有していませんでした。秦が滅んでから、わが魏は北方〔原文「玄朔」〕で帝号を称したのです。・・・もし晋を継承するということにすれば、晋が滅んでかなり時間が経ってわが魏が帝号についたことになり(違和感がございますし)、もし秦を継承しないということにすれば、中原(を領有しているかどうか)は基準からはずれてしまいます〔原文「中原有寄」。川本氏に従い、「有」を「無」の誤字として読んでおく。中華書局の校勘記も参照〕。このように考えてみますと、秦を継承することの道理は明々白々、ゆえに魏は秦を継承して土徳とすべきなのです。・・・いま、もし三家〔趙、燕、秦〕を一挙に切り捨て、遠くさかのぼって晋を継承することにすれば、中原が王者としての中心〔原文「正次」、こう訳して良いかは自信無〕であったという事実をないがしろにすることになるでしょう。
 史料には詳細な記述はないが、高閭が発言する前に、北魏は土徳ではない、晋を継承して水徳とすべきだ、という意見が出され、それに対する反論として彼が発言したであろうことは容易に察せられよう。拓跋氏が黄帝の子孫だから土徳なのだ、というものではなく、彼は論理的・法則的に土徳なのだと証明しようとしているのだが、そのさいに五行継承の基準に置かれたのが「中原を支配したか否か」であった。彼から見れば、後趙・前燕・前秦がそれに該当し、ゆえに、この三国を継承の順序からはずすことはあってはならないことなのである。
 礼志を読む限り、北魏=土徳説の代表格がこの高閭であったらしい。注意しておきたいのは、高閭の考え方がかなり独特あるいは独創的なものであったとも必ずしも言えないことだ。川本氏が前燕時代の例をすでに指摘しているが、前燕がみずからの五行を定めたさいのことを記した史料に、「後趙の水徳を継承して木徳とする」(『晋書』巻111慕容暐載記)とか、「後趙は中原を領有したが、これは人事で成し遂げられることではなく、天が命じたことであったのだ(したがって後趙を継承すべきだ)」(『晋書』巻110慕容儁載記附韓恒伝)といった記述が見えており、高閭の論理は十六国諸国でも参照されていた基準に従っていた可能性が高いのだ。色々な意味で、高閭は五胡十六国の延長上に北魏を考えているのである。

 一方、北魏=水徳説の代表格が孝文帝のブレーンであった李彪、崔光らであった。分量がアレなのではしょりますが、

①北魏の来歴をさかのぼると、神元帝(拓跋力微)のときに帝業の基礎が築かれたが、神元帝は晋の武帝と友好関係を築いていた。その後も晋朝とは関係を保ち続けていた。つまり、時代が離れていたとは必ずしも言えず、むしろ同時代的であり、晋が中原で滅亡し、魏が北方で天命を受けたと言えるのだ。

②過去の事例を探してみると、漢は秦ではなく周の五行を継承している。周が滅んで漢が興るまで約60年、晋が滅んで道武帝が即位するまでも約60年。すなわち、仮に①は大した理由にならないとしても、さかのぼって晋を継承することはそれほど不自然なことではない。

③そもそも石氏とか慕容氏とか苻氏とかってさぁ、短命だったじゃん? 天下に秩序を立てたっていうほどのことでもないじゃん? そんなやつらどうでもよくね? わが魏と比較対象にすらならんでしょうが!

という感じ。この考え方にしても、必ずしも孝文帝期にこねくりだされたとは言えないかもしれないが、詳しくはわかりません。ちなみに崔鴻は崔光の孫にあたる。
 この議論は太和15年に結論がくだされ、水徳説が採用された。かくして十六国時代は、正統王朝が存在していなかった時代として、公式に見なされるようになった。この五行観が唐代における認識をも規定づけ、したがって唐修『晋書』においても同様の見解が取られているのと考えられるのである。
 長くなってしまったが、崔鴻もこの公式見解と同様の著述をおこなっているわけ。北魏の公式見解が崔鴻に内面化していたのか、あるいはその枠内で著述をおこなわざるをえなかったのか、そこらへんはよくわからない。梶山氏によると、崔鴻がこの書を私撰したことは時の皇帝・宣武帝に伝わり、献上を要求されたのだという。朝廷側としても、この時代をどう記述されたのかが気になったのであろう。崔鴻は上表文を作成したが、結局生前にその上表文を奏上することも、書物を献上することもなく、鴻の没後、子によって朝廷に献上されたという(『魏書』巻67崔光伝附鴻伝)。崔鴻伝によると、『十六国春秋』はかなり初歩的なミスが多かったという。それなりに毀誉褒貶もあったらしいが、禁止されるとかそのあたりにまではいたっていないので、大きな史観では抵触していなかったのではなかろうか。

 以上のほか、『十六国春秋』ではもう一つ重要なポイントがある。それは「十六国」という言葉である。十六国マニアならご存じのように、五胡十六国時代は「五胡」ではないし「十六国」ではない。丁零の翟氏がいたじゃないか! 漢人は含めないの? 仇池は? 冉魏は? 西燕は? 等々。これらはすべて排除され、五胡=匈奴・羯・氐・羌・鮮卑、十六国=前趙・後趙・成漢・前凉・前燕・前秦・後秦・後燕・後涼・西秦・南涼・北涼・西涼・南燕・北燕・夏、ということになっているのだ。どうしてそういう選別になってしまったのか?
 じつは「十六国」に関しては、崔鴻が『十六国春秋』で対象としている国、すなわち「録」を立てて叙述をおこなった国とぴったり一致するのである。
劉淵、石勒、慕容儁、苻健、慕容垂、姚萇、慕容徳、赫連勃勃、張軌、李雄、呂光、乞伏国仁、禿髮烏孤、李暠、沮渠蒙遜、馮跋らをまとめて、・・・崔鴻は『十六国春秋』百巻を撰述した。(以劉淵、石勒、慕容儁、苻健、慕容垂、姚萇、慕容徳、赫連屈孑、張軌、李雄、呂光、乞伏国仁、禿髮烏孤、李暠、沮渠蒙遜、馮跋等、・・・鴻乃撰為十六国春秋、勒成百巻。)

晋の永寧年間以後、あちこちで兵が起こり、みなが競ってみずからの尊厳を確立させようしていましたが、しっかりと国を立てて官職を設け、先進国となることができましたのは、十六国でした。(自晋永寧以後、雖所在称兵、競自尊樹、而能建邦命氏成為戦国者、十有六家。)

臣の亡父・鴻は、・・・趙・燕・秦・夏・涼・蜀などの事跡を叙述し、賛・序を立てて批評を加えました。先帝の御世、下書きはできていましたが、李雄の国史がまだ入手できておりませんでしたので、この国の記述のみできておらず、完成が遅れていました。正光三年、当該書を購入することができ、検討をおこなって叙述をちょうど終えたとき、鴻は世を去りました。全部で十六国、「春秋」と名づけ、全102巻となっています。(乃刊著趙、燕、秦、夏、涼、蜀等遺載、為之贊序、褒貶評論。先朝之日、草構悉了、唯有李雄蜀書、搜索未獲、闕茲一国、遅留未成。去正光三年、購訪始得、討論適訖、而先臣棄世。凡十六国、名為春秋、一百二巻。)
 以上はすべて崔鴻伝からの引用。三崎良章氏によると、現在確認し得る「十六国」の初出はこの崔鴻伝であるらしい(『五胡十六国』東方書店)。崔鴻以前にもこのような「十六国」認識はあったかもしれない。崔鴻前後の時代に「十六国」という考え方が一般的だったかは微妙なところで、三崎氏は魏収『魏書』の伝の構造が崔鴻のものと相違していることなどを挙げ、共通した「十六国」理解が存在していなかったとしている。共通した理解がないことはたしかだが、まあでもおおよその枠組みでは共通しているようにも見えますけどもね。たとえば仇池や翟魏は排したり、とか。ともかく、崔鴻が当該時代を「十六国」時代と明確に打ち出したことは、相応のインパクトがあったはずである[2]

 冗長になってしまったが、『十六国春秋』は、
①晋以後北魏以前の華北時代を「十六国」時代として歴史把握したこと。
②「十六国」はすべて非正統と見なしていたこと。それは北魏の公式見解に抵触しなかったこと。
という特徴があった。現在でもこの時代を「十六国時代」と通称し、正統王朝の不在時代と見なすのが一般的であるから、孝文帝改革および『十六国春秋』の影響は非常に大きい。

 ここでようやく本題になるのですが、どうしてこの『十六国春秋』がそんなに大事なのかというと、じつは唐修『晋書』の載記は『十六国春秋』をコピペないし簡略に引用したものだと考えられるからだ。構造としても、載記は前述したように、項目は十四だが、前凉と西涼が列伝に移されているのを含めればぴったり十六、しかも崔鴻が「録」に立てた諸国と一致している。
 『太平御覧』偏覇部の十六国関連の項目では、『十六国春秋』が長文で引用されている[3]。わたしが詳しく検討したことがあるのは漢・前趙のみだが、たしかに両者の内容はとてもよく似ている。『十六国春秋』は節略した引用文のため、載記と比べるとどうしても情報量は劣るが、それでも載記の文言とかなり似ている。『十六国春秋』の佚文にはたまに載記ではすっ飛ばされている記述があったりするので、細かく見ることはけっこう価値がある。
 そもそも考えてみれば、崔鴻がこの書を執筆した動機が、十六国時代の史書が国別にバラバラで、全体をまとめて記した史書が存在しないからであった。唐修『晋書』の時代においても、『十六国春秋』を除けば依然として同じ状況。唐の史官としても、国別の国史を参照してイチから編集をはじめるより、すでにその作業をやってくれた『十六国春秋』を利用した方が手っ取り早いに決まっている。太宗の晩年に急いで編纂された『晋書』であれば、なおさらそんなめんどい作業をすることも考えにくい。
 とはいえ、唐の史官の手がまったく入らないまま転載されているとまでは言えない。引用にも取捨選択があった、というレベルではなくいろいろと。たとえば避諱。あるいは序。序はもしかしたら崔鴻のものを転載している可能性もありうるが、その可能性が高いのはどちらかといえば『魏書』のほうで『晋書』載記のものは違うと思う。雑伝の序も唐の史官が書いているっぽいので、たぶん序文は唐の史官が書き下ろしたのではないだろうか[4]。それと、前述したように、『十六国春秋』は君主の「伝」のなかに臣下の伝を挿入していたと考えられるが、唐の史官はそれをすべて削除したようである。ただ、削除に惜しい人物は、載記の末尾に附記したり、孝友伝や忠義伝などの雑伝に組み込んだらしい[5]。だからアレだね、編集者みたいに最低限の校正と編集だけやって『十六国春秋』から載記を作りだしたのではないかな。おそらく魏収も『十六国春秋』を基礎に叙述をしたと思う。また、載記からは削除された『十六国春秋』の文章がときどき『資治通鑑』に引用されていたりします。

 かなり推測交じりになっているが、唐修『晋書』は史観も記述もかなりの部分で『十六国春秋』に負っていると考えられる。そういうことを念頭に置いて載記は扱ったほうが良い。


覇史(『漢趙記』)
 『隋書』経籍志では、五胡諸国で編纂された史書のことを「覇史」と呼んでいる。わたしも便宜的に「覇史」と呼んでおく。
 さて、『十六国春秋』がどういうものか、これまで力説したつもりである。ただし、諸所で触れてきたように、崔鴻は覇史を基礎にして『十六国春秋』を編集している。しかも、成漢の国史が入手できないことをもって成漢の記述(「蜀録」)をしなかったということは、覇史をかなり重視していたらしいことがわかるだろう。そこでこうした覇史にかんしても考慮の外に置くことはできないのである。
 といっても覇史の種類はさまざま、そのうえ現在では佚文もわずかしか残っていないくらいに痕跡がない。なので、かなりの部分を推測に頼ることになるが、決して無駄な作業にはならないだろう。ここでは前趙の国史『漢趙記』について述べておく。
 覇史については、唐初に残存していた覇史は隋書経籍志に書名が記述されているほか、唐の劉知幾『史通』巻12外篇・古今正史に詳しい記述がある。前趙に関連する部分を引用してみよう。
前趙は、劉聡の時代に領左国史の公師彧が高祖〔劉淵の廟号〕本紀、功臣伝二十人を著述したが、きちんとした史書の体裁であった。しかし、凌修が先帝を誹謗していると讒言したので、劉聡は怒って公師彧を誅殺した。劉曜の時代、平輿子〔平輿県に封ぜられた子爵〕の和苞が『漢趙記』10巻を編纂したが、記録は盛時のものに留まり、劉曜が死んだところまで記されていない。(前趙劉聡時、領左国史公師彧撰高祖本紀及功臣伝二十人、甚得良史之体。凌修譛其訕謗先帝、聡怒而誅之。劉曜之時、平輿子和苞撰漢趙記十篇、事止当年、不終曜滅。)
 公師彧や和苞は載記にも見える。凌修も、「陵修」という人物と同一かもしれない。
 そんなことはまあ良いのだ。ここで言及されている『漢趙記』こそ、崔鴻が前趙録編纂時に参照したと思われる覇史なのだ[6]
 『漢趙記』のポイントは劉曜時代に編纂されたということ。劉曜が即位して間もなくおこなったことは、国号と太祖の変更である。 
光初二年六月、劉曜は宗廟と社稷、長安の南郊・北郊を修繕すると、令をくだして言った、「王者がおこるときというのは、必ず始祖を祀るものである。わが一族の祖先は禹の子孫で、北方の夷狄として生活し、代々北方地帯で勢力を誇ってきた。光文帝〔劉淵〕は、漢が久しく天下を領有し、その恩徳が庶民に行き渡っていたため、(便宜的に)漢の皇帝たちの廟を立て、民の支持を得ようとしたのである。(しかし)昭武帝〔劉聡〕はそのまま継承し、とうとう改革を加えなかった。いま、漢帝の宗廟を取り除き、国号を改め、また〔原文は「御」だが意味が通じない。仮に「復」と見なして読んでみる〕大単于〔冒頓単于〕を太祖に定めたいと考えている。この件について議論し、意見を述べよ」。太保の呼延晏らの議、「いま思いますに、(漢を称するのは魏や晋を継承しないことを意味していますが、)晋を継承すべきであり、母から子へと受け継がれるように、国号も考えるべきであります。光文帝はもともと(晋から)盧奴に封建されていましたが、盧奴は中山の領域に相当します。また、陛下のわが国家における功績は洛陽平帝をはじめ、偉大なものでございまして、ついには中山王に封建されました。(かくして中山という点で、陛下と光文帝は共通点がございますが、)中山の分野は梁・趙に属します。ですので、大趙を国号とし、(晋の金徳を継承して)水徳とするのがよろしいと存じます」。劉曜はこれに従った。かくして、冒頓単于を天に配し、劉淵を上帝に配することとした。(六月、繕宗廟社稷、南北郊于長安、令曰、「蓋王者之興、必褅始祖。我皇家之先、出自夏后、居于北夷、世跨燕朔。光文以漢有天下歳久、恩徳結於民庶、故立漢祖宗之廟、以懐民望。昭武因循、遂未悛革。今欲除宗廟、改国号、御以大単于為太祖。其連議以聞」。於是太保呼延晏等議曰、「今宜承晋、母子伝号。以光文本封盧奴、中之属城。陛下勲功懋於平洛、終於中山。中山分野属大梁・趙也。宜革称大趙、遵以水行」。曜従之。於是以冒頓配天、淵配上帝。)
 以上は『太平御覧』巻119に引く『十六国春秋前趙録』の文章である。劉曜載記ではこの詳しい経緯は省略されてしまっている。
 趙を結論に出す論理はよくわからんが、大事なことは劉淵による漢帝の祭祀・宗廟を否定したことである。劉淵は即位時、はっきりと「太祖高皇帝」と述べていたが、劉曜は完全にそれを拒絶し、太祖(王朝の始祖的存在者)を漢の高祖から冒頓単于に変更し、あわせて国号も変更してしまった。冒頓単于を持ち出すあたり、「漢なんかクソくらえ!」という彼の認識がうかがえるね。たかが国号、されど国号、この変更には重大なイデオロギーの変更があったわけで、軽視すべきではないのだ。
 しかし、かといって劉曜は劉淵時代を否定するわけではない。むしろ、彼は劉淵を継承することに自身の正統性を見いだしている。「漢趙記」という国史の名前もそうだろう。趙は漢を否定して成り立った国号にも関わらず、漢を名乗っていた時代をなかったことにはできない、一概に否定的評価をくだすわけにもいかない。複雑でゆがんだ歴史観がここに現前することは、容易に想像できるだろう。
 ①劉淵は臨時に漢を国号としたこと、②劉曜にいたって本来の姿=趙になったこと、大まかにこの二つを視点を基礎に、『漢趙記』が編纂されたと思われる。もちろん、崔鴻も載記も同様の視点。前趙録、劉淵・劉聡・劉曜載記を根本から枠づけているのは『漢趙記』なのである[7]。このこともやはり忘れてはならない。

 ところで、劉曜が言うように、劉淵は便宜的に漢を称したのであろうか。わり本気で漢を称していたんじゃないだろうか。
 劉淵の即位直前、劉淵に即位を勧めていた劉宣は「呼韓邪単于の業績を復興する」べきだと説いていた。劉淵は「その通りだ」と返答しておきながら、漢帝こそわが先祖と宣言しちゃって即位してしまった。即位までの詳しい経緯はよくわからないが、この政治的変更は劉淵の個人的判断に基づくところが大きいと思う。劉宣が冒頓でなく呼韓邪を持ち出したのはとても不思議だが、漢と友好を築いた単于なのだし、たぶん漢にそんなに悪い印象はもっていなかったとは思う。
 が、劉淵の即位宣言を読めばわかるように、呼韓邪か漢帝かという問題は自分たちの来歴の物語にとても重大な変更をもたらすものである。劉曜が冒頓に変更したのだって、自分たちの来歴を確認しながらなされている。要するに、自分たちの歴史をどう語るかという問題。そのとき、劉淵は自分たちの物語の由来を漢皇帝に求めて歴史を語り直したのでは・・・? このあたりの記述も『漢趙記』の観点から編集し直されているんだ!と言われるともう何も言えなくなるんですけどね。
 ともかく、政治的視点もさることながら、移住民はどのように歴史を語り継いでいくのか、という視点からも考える必要があるように思います。



 全体的に長くなってしまったし、専門的な話が多くなってしまった。ただ、史書がいつ、誰が主導して、どのように成り立ったかというところは本当にとても大事なこと。それを調べるのは容易でない。日本語では概説書がないから、研究論文を読んだり、電子文献にない史書をめくったりし、あるいは史書の「書きグセ」を実感するために何度も通読したり・・・。わたしだって、『十六国春秋』や覇史全般に精通しているわけではない。漢・趙関連を多少知っている程度にすぎない。
 そういうこともあるので、なるべく自分が知っている情報は開示してみようと思った次第です。役立つかは知りません。なんというか、うまく言えないんだけど、間違い探しじゃないんですよ、史書を読むっていうのは。キーワードを検索して、ヒットした記述をもってきて自分の意見を正当化するだけで、その文章がどのような史料のどのようなところに書かれてあるのか、ってことは軽視してはいけないんですよ、本来は。それはとても高い要求のようだけど、でも「事実」を語るっていうのはそういうことなんじゃないかな。

 それともう一つ。『十六国春秋』のところで、長々と北魏孝文帝時代の五行改革に言及しておいたが、アレから想像してもらえるように、現在では「五胡十六国時代」と呼んでいるあの時代は、そうでない可能性もありえた。というか、現にそういう見方があった。「もしかしたらこういうふうに語れるのでは・・・」という想像力は大事なことだ。
 わたしは、劉淵たちの歴史が「歴史をどう語るかという歴史」にしか見えなくなってしまい、それ以来、「歴史はどのように語られてきたのか」という観点からこの時代を眺めつつ、「歴史」自体にいかなる意味があるのだろうかと考えるようになりました。わたしにはそういう現れ方をした、そういうことですね。


――注――

[1]唐代の五行の継承に関する認識は、『旧唐書』巻190文苑伝上・王勃伝、『新唐書』巻201文芸伝上・王勃伝、『唐語林』巻5を参照。本記事から脱線するが、せっかくなので『新唐書』の記事を以下に紹介しておく。

武周のとき、李嗣真は周・漢を(直接継承したとしてこれらの王朝を)「二王後」 と見なし、北周・隋を(正しい継承関係から)はずすよう要請し(採用され)たが、(則天武后が退くと)中宗は再び北周・隋を「二王後」に採用した。玄宗の天宝年間、平和が長く続き、奏上される進言の多くは妖しげなものであった。崔昌という者がおり、王勃のかつての学説を採用して、『五行応運暦』を(著して)献上し、周・漢を継承することを説き、北周・隋を(継承することを)やめて閏とみなすよう請うた。右丞相の李林甫もこれに賛同した。・・・こうして玄宗は詔をくだし、唐は漢を直接継承していることにし、隋以前の(魏晋南北朝の)皇帝をしりぞけ、(「二王後」であった北周の後裔)介公・(隋の後裔)酅公を廃し、周・漢を尊んで「二王後」とし、(周・漢と)商を三恪とした。京師に周の武王と漢の高祖の廟を建て、崔昌を太子賛善大夫に任命した・・・。楊国忠が右丞相となると、自身が隋の子孫を称しているので、再び北魏(から北周・隋)を三恪とし、北周・隋を「二王後」とするよう建議した。そのため酅公・介公は以前の爵位を戻され、崔昌は烏雷尉に官を降格された。
 すなわち玄宗の天宝九載(750年)、崔昌『五行応運暦』の提案により、漢→唐の継承が正式に採用され 、漢(火)→魏(土)→晋(金)→北魏(水)→北周(木)→隋(火)→唐(土)とされてきた五行継承も漢(火)→唐(土)に変更されたということである。
 崔昌『五行応運暦』の基となったと言われる王勃の旧説についてであるが、王勃は魏晋以降の王朝は「みな天下を一統していない(咸非一統)(『唐語林』)、「みな正統ではない(咸非正統)(『旧唐書』)、「北周・隋は短命である(周・隋短祚)(『新唐書』)とし、一方「黄帝から漢までが、五行の正しい継承王朝である」とし、唐は「真主」の王朝「周・漢」を継承するべきだと主張しているようである。かかる王勃の理論は「現実的でない(迂闊)」とされ、高宗の受け入れるところとはならなかった(『唐語林』)
 また、玄宗ころの文士に蕭穎士という者がいたが、こちらは梁の皇族の子孫のようで、梁陳革命を否定し、晋(金)→劉宋(水)→南斉(木)→梁(火)→唐(土)という案を提出したという(『新唐書』巻202文芸伝・中・蕭穎士伝)。唐の土徳を梁の火徳から正統化づけたかったわけだね。ただこの説が普及したかどうかはとくに言及がないので不明。さっきの漢→唐説もそうだけど、北朝をすっとばすのは唐にとってはきつかったんじゃないかな。[上に戻る]

[2]なお崔鴻は「五胡」という言葉によってこの時代を特徴づけてはいない。彼は「十六国」の戦国時代と見ているにすぎない。「五胡」の語については、三崎氏の前掲書に詳しいので、そちらを参照のこと。[上に戻る]

[3]梶山氏も指摘しているが、北宋の『太平御覧』は北斉の『修文殿御覧』をもとに成立したものであり、『太平御覧』偏覇部の当該項目で唐修『晋書』ではなく『十六国春秋』を引用しているのは、北斉『修文殿御覧』を継承しているからだと考えられる。[上に戻る]

[4]載記に設けられている「史臣曰」と「賛」は不明。[上に戻る]

[5]漢・趙関連で言えば、劉殷(孝友伝)、王延(同前)、王育(忠義伝)、劉敏元(同前)、喬智明(良吏伝)、崔遊(儒林伝)、范隆(同前)、董景道(同前)、卜珝(芸術伝)、台産(同前)、賈渾妻宗氏(列女伝)、劉聡妻劉氏(同前)、王広女(同前)、陝婦人(同前)、靳康女(同前)、劉宣(劉元海載記)、陳元達(劉聡載記)。すべて『十六国春秋』由来とも言いきれないが。『十六国春秋』の佚文にも、こうした臣下たちの伝が多く見えている。またも漢・趙関連になるが、「李景年字延祐、前部人也。長平之戦、劉聡馬中失、幾為晋軍所獲、景年以馬授聡、揮戈前戦。以功封梁鄒侯」(『太平御覧』巻351引)、「江都王延年、年十五喪二親、奉叔父孝聞。子良孫及弟従子、為噉人賊所掠。延年追而請之。賊以良孫帰延年、延年拝請曰、『我以少孤、為叔父所養。此叔父之孤孫也。願以子易之』。賊曰、『君義士也』。免之」(『太平御覧』巻421引)とか。[上に戻る]

[6]公師彧が編纂した国史の書名は伝わっていない。少なくとも唐初の時点で残存していなかったと見られるが、そもそも『漢趙記』編纂時点で吸収されたか、あるいは淘汰されたかどちらかであろう。[上に戻る]

[7]わたしは、劉聡へのあの徹底的にネガティヴな記述は、すべて『漢趙記』に由来するのではないかと疑っている。安田二郎氏か福原啓郎氏かが曹魏の明帝を取り上げたさいに「王朝滅亡の原因を提示するために、暗君の姿が描かれやすいものだ」みたいな言及をしていたが、劉聡への否定的評価も同様の理由でなされたものと感じている。「漢が滅んだのはこいつのせいです」みたいにね。ここらへんは感触に過ぎませんが。[上に戻る]

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