2013年8月6日火曜日

六朝期における編年体史書

 六朝時代と言えば、編年体の史書が流行した時代である。『隋書』経籍志は紀伝体の史書を「正史」、編年体の史書をおおよそ「古史」に分類している[1]。「正史」は司馬遷『史記』、班固『漢書』を模範とするのに対し、「古史」は『春秋左氏伝』にその体裁を倣っているのだと言う[2]
 しかし残念ながら、編年体の史書で現在でも完本のかたちで残存しているのは東晋・袁宏『後漢紀』のみであり、そのほか東晋・干宝『晋紀』、東晋・鄧粲『晋紀』、東晋・孫盛『晋陽秋』、東晋・習鑿歯『漢晋春秋』、劉宋・檀道鸞『続晋陽秋』、梁・裴子野『宋略』、梁・蕭方等『三十国春秋』、北魏・崔鴻『十六国春秋』(これは五胡関連と言うことで「覇史」に分類されている)などは散逸してしまった。だがこれらも佚文のかたちで残っている点では、まだましかもしれない。なかには佚文すらも全く残っていないという史書もある。
 今回はその編年体の「書き方」について、一つの特徴をまとめて、述べておこうと思う。

 さて、その『後漢紀』であるが、まず以下のような叙述を見ていただきたい(巻一光武皇帝紀)
 三月、世祖与諸将略地潁川、父城人馮異、内郷人銚期、潁陽人王覇、襄城人傅俊、棘陽人馬成、皆従世祖。
 異字公孫、通左氏春秋、好孫子兵法、為郡功曹、監五県事、与父城令苗萌共守。異出行属県、為漢兵所得、異曰、「老母在城中、且一夫之用、不足為強、願拠五城以効功」。世祖善之。異帰謂萌曰、「観諸将皆壮士屈起、如劉将軍、非庸人也、可以帰身、死生同命」。萌曰、「願従公計」。
 期字次況、身長八尺二寸、容貌壮異。父卒、期行喪三年、郷里義之。世祖聞其気勇有志義、召為掾。
 覇字元伯、家世獄官。覇為獄吏、不楽文法、慷慨有大志。其父奇之、使学於長安数年。帰、会世祖過潁陽、以賓客見世祖曰、「聞将軍興義兵、誅簒逆、竊不自量、貪慕威徳、願充行伍、故敢求見」。世祖曰、「今天下散乱、兵革並興、得士者昌、失士者亡、夢想賢士共成功業、豈有二哉」。覇父謂覇曰、「吾老矣、不任軍旅、汝往勉之」。
 俊字子衛、成字君遷、以県吏・亭長従。
 夏五月、王莽遣大司徒王尋・大司空王邑将四十万兵、号百万衆、至潁川、厳尤・陳茂復与二公遇。・・・
 だいたい歴史学者というのは、この中身の批判的吟味ばかりをしてしまう。范曄の『後漢書』にもある文章はどれか、ない文章はどれか、相互で矛盾した記述はないか、等々。だがそんなことはどうでもよかろう。ここで注目していただきたいのは、叙述の進め方である。以下のようにまとめることができそうだ。
更始元年三月の記事。
馮異の記事。
銚期の記事。
王覇の記事。
傅俊・馬成の記事。
更始元年五月の記事。
 『春秋経』を思い出していただきたい。そこでは「○○年、~~。××年、~~」とあるのみであった。しかしこの『後漢紀』ではどうだろう。単純に「△△年、~~があった。□□年、~~があった」と書いているのではなく、「△△年」(更始元年三月)と「□□年」(更始元年五月)の間に少々脱線した列伝風の記事を挿入しているのである。
 もう少し詳しく見てみよう。この場面で記事が挿入さている馮異、銚期らは、「△△年」(更始元年三月)が初登場である。初登場となったところで、その人物の郷里、字、人となり、簡単な逸話、そしてどうしてこの場面で登場するに至ったかのいきさつ(ここでは光武帝に従うようになったいきさつ)を記述しているのである。
 この場面だけではなく、『後漢紀』では所々でこのような列伝風記事や逸話を挿入している。このような書き方、あたかも『春秋左氏伝』を思わせるものがあるだろう。ただし袁宏の場合は、「経」の間に「伝」を挿入し、「伝」の内容も脱線し過ぎないようにコンパクトにまとめているのではあるが。

 以上のような特徴的構造を持つ『後漢紀』であるが、どうやらこのような構造は当該時期の編年体一般に通じる特徴であったらしい。というのも、『史通』巻2載言篇に、
昔干宝議撰晋史、以為宜準丘明、其臣下委曲、仍為譜注。於時議者、莫不宗之。故前史之所未安、後史之所宜革。

むかし、干宝が晋朝の国史編纂の件について意見を述べたとき、(彼は)左丘明(の体裁)を手本とし、皇帝の臣下たちの詳細については、箇条書きにして注記することとした。当時の論者たちは、みな干宝のこの形式に倣った。こうして、前代の編年体における「事柄を詳細にカバーしきれない」という不安な点は、後代の新しい編年体形式によって改善されたのである[3]
とあるからである。
 編年体となれば、皇帝の事跡が中心となった叙述になってしまう。そうなると、臣下たちの事跡はかなりの程度捨象せざるをえない。それに比べ、紀伝体は列伝とか志とか表とかいう形式で、何でもいくらでも書いて良いのである。結果論的ではあるが、結局のところ紀伝体が生き残っていったのは、詳細に何でも記録できると言う長所にあったのではなかろうか[4]
 干宝は国史『晋紀』の編纂に当たって、編年体のこうした欠点を改善するために、簡単な列伝を作ってそれを注記のかたちで挿入することにしたようだ[5]。たとえば次のような佚文がこれに該当するだろうか。
干宝晋紀曰、文淑討樹機能等、破之。文淑字次鴦、小名鴦、有武力算策。楊休・胡烈為虜所害、武帝西憂、遣淑出征、所向摧靡、秦涼遂平、名震天下。為東夷校尉、姿器膂力、万人之雄。(『太平御覧』巻275引)
 ほかの編年体史書からもこのような列伝風記事をいくつかあげておこう。

東晋・鄧粲『晋紀』
鄧粲晋紀曰、(裴)遐以辯論為業、善敘名理、辞気清暢、泠然若琴瑟、聞其言者、知与不知無不歎服。(『世説新語』文学篇注引)

東晋・孫盛『晋陽秋』
晋陽秋曰、(潘)岳字安仁、滎陽人、夙以才穎発名、善属文、清綺絶世、蔡邕未能過世、仕至黄門侍郎、為孫秀所害。(『世説新語』文学篇注引)

晋陽秋曰、胡威字伯虎、淮南人、父質、以忠清顕、質為荊州、威自京師往省之、及告帰、質賜威絹一匹、威跪曰、「大人清高、於何得此」。質曰、「是吾奉禄之余、故以為汝糧耳」。威受而去、毎至客舎、自放驢、取樵爨炊、食畢、復随旅進道、質帳下都督陰齎糧、要之、因与為伴、毎事相助経営之、又進少飯、威疑之、密誘問之、乃知都督也、後以白質、質杖都督一百、除其吏名、父子清慎如此、及威為徐州、世祖賜見、与論辺事及平生、帝歎其父清、因謂威曰、「卿清孰与父」。対曰、「臣清不如也」。帝曰、「何以為勝汝邪」。対曰、「臣父清畏人知、臣清畏人不知、是以不如遠矣」。(『世説新語』徳行篇注引)

劉宋・檀道鸞『続晋陽秋』
続晋陽秋曰、車胤字武子、学而不倦、家貧、不常得油、夏日用練嚢、盛数十蛍火、以夜継日焉。(『芸文類聚』巻97蟲豸部蛍火引)

北魏・崔鴻『十六国春秋』
崔鴻十六国春秋前趙録曰、江都王延年、年十五喪二親、奉叔父孝聞。子良孫及弟従子、為噉人賊所掠。延年追而請之。賊以良孫帰延年、延年拝請曰、「我以少孤、為叔父所養。此叔父之孤孫也。願以子易之」。賊曰、「君義士也」。免之。(『太平御覧』巻421引)

崔鴻前趙録曰、李景(年)字延祐。少貧、見養叔父、常使牧羊。景(年)見其叔父講誦、羨之。後従博士乞、得百余字。牧羊之暇、折草木書之、叔父乃誤曰、「吾家千里駒也。而令騏驎久躓塩坂」。乃為娶妻教学。(『太平御覧』巻833引)

崔鴻十六国春秋後趙録曰、張秀字文伯、羌渠部人也。頗暁相法、常謂石虎曰、「明公之相、非人臣骨」。虎掩其口、曰、「君勿妄言、族吾父子」。(『太平御覧』巻730引)

十六国春秋曰、趙明字顕昭、南陽人。虎摂位、拝為尚書。及誅勒諸子、明諌曰、「明帝功格皇天、為趙之太祖、安可以絶之」。虎曰、「吾之家事、幸卿不須言也」。以直忤旨、故十年不遷、貞固之風、時論擬之蘇則。(『太平御覧』巻454引)

 これらは全て引用された記述(佚文)であるから、引用者によって文章が改変されている可能性はもちろん高い(『晋陽秋』佚文の潘岳に関する記事とか、潘岳発初登場時にその殺害のことまで記述されているとは少し考えがたいかもしれない、だとすれば引用者が引用するときに殺害の情報まで追加しておいたのかもしれない)。ただしかし、当時の編年体の叙述の進行やスタイルはおおよそ、袁宏『後漢紀』(干宝『晋紀』)と同様であったと思われる。
 編年体の利点としては、読みやすさ、簡潔さがよく挙げられている。だが干宝に始まる新形式であれば、異なるスタイルの文章を加えることによって、文章に凹凸ができるため、平板さが消え去って、叙述に豊かさがもたらされる、のかもしれない。飽きない文章であればなおさら、スラスラ読める文章となるわけだ[6]。この新しい編年形式が『資治通鑑』にも継承されていることを考えれば、この新形式の発明は軽視できないものなのである。


――[注]――

[1]この時期の「正史」という語が書き方の形式(フォーマット)を指して用いられていたこと、改めて注意しておくべきである。なお編年体は全てが「古史」に分類されたわけではなく、一部は「雑史」や「覇史」にも分類されている。おおよその傾向としては、古史=正統王朝(南北朝)の断代史(東晋・孫盛『晋陽秋』など)、雑史=通史(西晋・皇甫謐『帝王世紀』など)、覇史=五胡などの非正統王朝(前趙・和苞『漢趙記』など)。あくまで「おおよそ」なんで。[上に戻る]

[2]隋志によると、「起漢献帝、雅好典籍、以班固漢書文繁難省、命潁川荀悦作春秋左伝之体、為漢紀三十篇」とあり、荀悦『漢紀』を「古史」の先駆けに挙げ、詳しいいきさつを述べている。それによると、漢の献帝が「班固の文章うるさっ!みづらっ!」と思ったので、荀悦に『漢書』を『左氏伝』風にまとめなおすよう命じ、こうして『漢紀』が成立したのだと言う。つづけて隋志によると、西晋期にいわゆる『竹書紀年』が発見され、その体裁が『春秋経』や『左伝』に似ていたことから、学者たちは『春秋』『左伝』こそが古代の史書のスタイルであったに違いない、と確信するようになり、『左伝』風の体裁=編年体が権威あるものとして受け止められ、流行したのだと言う。
 と、長々と述べてきたが、このような隋志の説明は、隋志の執筆者の理解が反映されているのであって、実際にはそうではないとする意見もある。例えば戸川芳郎氏によると、荀悦は序で『左伝』に言及しておらず、とくに『左伝』を意識していたわけではなかったのであり、『漢紀』が『左伝』に倣ったという理解自体、後世の産物であると言う。さらに、「帝紀もの」(編年体)が行われた当初は年代記風の通史的叙述をめざしていたのであって、『春秋経』『左氏伝』を意識していたわけではなかったが、西晋期の『竹書紀年』発見が契機となり、こうした「帝紀もの」が『春秋経』や『左氏伝』に連なる叙述スタイルとして権威づけされていき、その認識がそのまま継承され、隋志にいたっているとのことだそうだ(戸川「帝紀と生成論」、同氏『漢代の学術と文化』研文出版、2002年。また同氏「四部分類と史籍」、『東方学』84、1992年も参照)[上に戻る]

[3]この部分の読解は、『史通』巻2二体篇における編年体・紀伝体の長短に関する論述を念頭に置いている。[上に戻る]

[4]もちろん、劉知幾が代表的ではあるが、紀伝体は長ったらしくて嫌いだ!編年体のほうが簡潔でイイネ!!紀伝体なんか滅びてしまえ!!!という人もけっこういる(前述の献帝もそうですね)。六朝期に編年体がそれなりに流行したのは、同じように思った人がけっこういたからではなかろうか。[上に戻る]

[5]このような形式をひねりだした背景には、貴族たちの事跡を重んじようとする当時の貴族制的風潮が影響していたとの説がある。「干宝が譜注を添える形式を採ったことは、裴松之の三国志注、劉孝標の世説新語注に連なるものとして注目を要し、しかも、それがあらかじめ構成された自注であり、一書全体を通して、編年体の帝紀と君臣個人の譜注の関係にあること、そして、この干宝の提議にたいして、東晋初頭の議者がすべて賛同したということには、いっそう注目すべきである。紀伝体史が主流となったときに、その簡略化を旨とし、古史への回帰を志向する精神が、貴族制の進展とそれに伴う家伝、氏譜の尊重の世相と混合して、このような折衷的な新形式を生みだし、その故に当時の評判をかちえたものであろう。しかも、干宝は、簡潔な帝紀を譜注によって適切に説明し、春秋左伝の経と伝との関係に擬えたつもりではなかったかと思われる」(尾崎康「干宝晋紀考」、『斯道文庫論集』8、1970年、pp. 293-294)。尾崎氏は「譜注」の語を「家譜形式の注記」といった感じで解釈しておられるようである。この指摘は見逃せないけれども、そこまで貴族制を第一に考えなくとも良い気もする。
 なお原文「譜注」は、『漢語大詞典』によると「叙写、記載」とのこと(用例には本分引用の『史通』を挙げている)。まあたまに『漢語大』でもこういう諸橋大漢和レベルの語釈があるんですわ。しかし、『漢語大』に従って単に「記述した」と意味を取っては、文章全体が意味をなさない。本文の翻訳は少しやりすぎだなのだが、まあこんくらい大胆にやってみてもいいでしょう。
 しかしこんな技巧をてらしてまでせんでも、いろいろ書きたいいうならいっそ紀伝体でかけばええやん、よみづらいとかなにさまなんでもありません[上に戻る]

[6]余談だが、清の銭大昕の『廿二史考異』序文に、『資治通鑑』を何葉かめくってあくびをしだす知識人の故事が引用されていた。たしか南宋の人だけど。まああんな漢字だらけで、しかも現代と違って標点もなければ、活字でもないというのでは、「見づらい読みづらいつまらない」になるのも仕方ないだろうね。私も読む気にならんと思う。[上に戻る]

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