2013年6月9日日曜日

晋南朝の「増位」(3)

〈前回までのおさらい〉
①晋南朝期を通じ、皇帝が「文武」の官僚に対し、一律に「位」を加増する事例が見えている。
②「増位」は「おめでたいこと」があった場合に行われていた。

 今回は「位」について考えてみよう。具体的には「位」という字の当該時期における用例を調べてみることで、「増位」の「位」の指示対象を検討してみようということだ。
 私が見るところ、以下の4つの用例が重要だと思われる。

①官品(官位)
『晋書』巻6明帝紀
進(陶)侃征南大将軍・開府儀同三司。
よく見かける用例。何も意識しなければ「官位」と翻訳するような事例ではないだろうか。具体的には官品だとか官相互における序列のようなものであろう。
(※例えば、晋官品によると尚書令と尚書僕射はともに三品であるが、序列は尚書令のほうが上である。このような意味における「序列」は④の用例とも強く関わる)
 より明確に官品を指す用例としては、『南斉書』巻56倖臣伝・序に、
晋令、舎人居九品。
とある。

②爵
『晋書』巻6元帝紀
年十五、嗣琅邪王。
『晋書』巻35裴秀伝
有二子、濬・頠。濬嗣、至散騎常侍、早卒。濬庶子憬、不恵、別封高陽亭侯、以濬少弟頠嗣。
漢文で「爵位」とあったら「爵と位」と読んでしまいがちだが、「位」はこのように、爵を意味する場合もあった。

③品(いわゆる郷品)
『宋書』巻43徐羨之伝
初、高祖議欲北伐、朝士多諌、唯羨之黙然。或問何独不言、羨之曰、「至二品、官為二千石、志願久充」。

 「「位」は二品、官は二千石にまでなったし、もう満足じゃけえ」という徐羨之の発言。この時の彼の官は太尉(劉裕)左司馬(七品)、兼任で鷹揚将軍(五品)、琅邪内史(五品)を領していたと思われえる。「二千石」は琅邪内史を指すのだろう。
 では二品とは?官品二品の官に就任していないのだから、ここの品はいわゆる「郷品」のことを指すと見られる。とはいっても、中華書局校勘記を参照すると、「二品」は「五品」の誤りである可能性もあるため、「郷品」であるとは確言できない。

④班位(朝位とも言う)
『宋書』巻39百官志・上
漢東京大将軍自為官、位在三司上。魏明帝青龍三年、晋宣帝自大将軍為太尉、然則大将軍在三司下矣。其後又在三司上。晋景帝為大将軍、而景帝叔父孚為太尉、奏改大将軍在下、後還復旧。
訳しておくとこんな感じ。「後漢のときに大将軍が常設官となって以来、その「位」は三公の上に置かれていた。曹魏の明帝の青龍三年、晋の宣帝が大将軍から太尉に移った。さすれば、(この時期は)大将軍が三公より下に置かれていたのだろう。その後、再び三公の上とされた。晋の景帝が大将軍になったとき、景帝の叔父の孚が太尉であったので、(景帝は)大将軍を三公の下に置くよう上奏し(、許可され)た。その後、もとに戻された」。
 この場合における「位」は官を所有する個人ではなく、官自体の「位」である。このような「位在○○上/下」という記載は慣例的な表現であり、結論的に言うと、このような場合の「位」は班位を指すと考えられる。もう一例引用(『晋書』巻24百官志)。
特進、漢官也。二漢及魏晋以加官従本官車服、無吏卒。太僕羊琇遜位、拝特進、加散騎常侍、無余官、故給吏卒車服。其余加特進者、唯食其禄賜、位其班位而已、不別給特進吏卒車服、後定令。特進品秩第二、位次諸公、在開府驃騎下
「特進は漢代の官である。両漢、曹魏、晋においては加官であったので、(特進に任じられた者は、)本官の馬車・服装の規定に従い、(特進の)属吏・兵卒はいなかった。(西晋時代、)太僕の羊琇が「位」を辞そうとしたとき(=引退しようとしたとき)、特進に任じられ、散騎常侍を加えられたが、他に官を有さなかったので(、本官に相当する官が無かった。そこで特別に)、属吏・兵卒・馬車・服を給った。(これは特殊な事例であったので、)他に特進を加えられた者は、単に俸禄を食み、班位を定められただけで、属吏などが支給されることはなかった。後に(このことは)令に定められた。特進の官品は二、位は公の下、開府驃騎将軍の上である」。

 最後に「品秩」と「位」が弁別されているように、「位」は官品とは別の序列規定である。そしてこの「位」こそ「班位」ではないか、というのが私の想定である。班位とは宮中の席次のことである。

 仮に「位」=「班位」として、「官品」とは別だとすれば、何を基準として序列を成していたのだろうか。漢代では綬制(紫綬、青綬など)と朝位が対応しているそうだ(阿部幸信「漢代における朝位と綬制について」、『東洋学報』82-3、2000)。魏晋でもそうかもしれない。
 晋南朝の印綬冠服規定については、小林聡先生が研究を進めているが、それによると印綬冠服の序列は官品、爵と対応する場合もあるが、秩石と対応する場合も見出されるという。つまりまあ、秩石を参考にして「班位」を規定した可能性を考慮しても良いかもしれないのだ。
 現にこの時代の官の序列は官品には一元化できないものがある。尚書令は官品は三品と、非常に高いのだが、秩石と印綬は漢代のまま変わらず、千石、銅印墨綬であった。同じく三品の「九卿」は中二千石、銀章青綬である。そんな具合で考えると、しばしば史上に見える「増秩」についても視野に収める必要がありそうだ。
 
 かなりくどくどしくなってしまったが、班位(朝位)とは朝会のような礼的な場における官の序列のことである。班位は従来、あまり言及されることもないし、あまりピンとくる序列規定ではないと思われるので、くどい話になってしまった。


 では「増位」の「位」とはどれだろうか?
 私は当初、④だと思っていた。といっても積極的な理由はなく、消去法である。文武官の官品をホイホイと、しかも一律に加増するっておかしいじゃん?なんか無理っぽいじゃない。郷品もそんな簡単に上げれんやろー、と。爵はどうだろう、違う気がするが。というような具合で班位だろう、と考えた。仮にそうでなくとも、この時期の班位や秩石に関する本格的研究は無いのだし、なんとかひねればネタになるだろう、という期待感もあって、④を想定した。
 が、いま考えてみると、これもどうだろう。みんなの席次が一律に上がるって何も増えてないのと同じだし、意味あるのだろうか。

 難しい。

最終回(晋南朝の「増位」(4))

0 件のコメント:

コメントを投稿